
第1章
顧客中心主義だけでは不十分
顧客が小売企業に求めているのは、生活をより楽にすること・快適にすること・充実させることです。
小売企業と顧客との関係性は根本的に変化しつつあり、顧客の方が力と決定権を持つようになっています。この点について、EYは2018年からFutureConsumer.Nowプログラムにより調査とモデル化を行ってきました。小売に関しては、必要な時にただ「そこにあり利用できる」企業との取引を望む買い物客が増えているといえます。小売企業は、もはや顧客がやって来るのを待っているのではなく、顧客のいるところに出向かなければなりません。多くの場合、その場所とはオンラインです。
新型コロナウイルス感染症が拡大する前から、仕事、学習、人付き合い、買い物、エンターテインメントを問わず、消費者の生活のデジタル化は進んでいました。同時に、小売側は2つの異なる方法でそうした顧客への対応を図っていました。「購買」向けと「ショッピング」向けの対応です。前者は時間の節約になるようシームレスな取引を実現することであり、後者は顧客が時間をかけて行いたくなるようなエクスペリエンスを提供することです。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う規制で実店舗が休業を余儀なくされる中、購買とショッピングの両方でますますオンライン化が進んでいます。
必要な時にただ「そこにあり利用できる」企業との取引を望む買い物客が増えています。小売企業は、もはや顧客がやって来るのを待っているのではなく、顧客のいるところに出向かなければなりません。
こうしたオンライン化により、顧客にとっての「利便性」の意味と、顧客が求める「エクスペリエンス」は変化しましたが、根本的には利便性とエクスペリエンスが求められていることに変わりはありません。EYでは、顧客が抱いている3つの主な期待、つまり、生活をより楽にしたい・快適にしたい・充実させたい、という観点から考えることが有用と考えています。これらの期待が、3つの領域で小売企業が顧客の生活に溶け込む好機を生み出します。その3つとは、Invisible(無形の存在)になる、Indispensable(不可欠な存在)になる、Intimate(親密な存在、つまり顧客が共に過ごしたいと思う相手)になる、です。
この「3つのI」は相互排他的なものではありません。課題は、このうち複数の領域を満たす価値提案を構築し、競合他社が太刀打ちできない方法でそれを提供することです。

生活に溶け込み、より深い絆を育む
今日では、Invisibility(無形化)、Indispensability(不可欠化)、Intimacy(親密化)の3つを適切に組み合わせ、非常にうまく個々の顧客に提供している小売企業もあります。そのおかげで、消費者はAIを活用したリピート購入リストや便利な配送サービスを利用して、自宅から簡単にオンラインショッピングができるようになりました。また、至るところにあるデジタルアシスタントを利用して(サブスクリプションで)音楽を聴くことも、(食材の配送を頼んで)自宅のキッチンで楽しいオンライン料理教室に参加することも、家族が好きな映画を何でも(クラウドからダウンロードして)見ることも、簡単にできます。
そのような小売企業は、顧客が意識的に、あるいは無意識のうちに行う選択を誘導し、方向付け、教育・健康・アドバイスといった単なる商品の販売にとどまらないサービスを通して、より深い絆を育むことができます。また、顧客が既に利用しているソーシャルプラットフォームや宿泊先として選ぶホテル、参加したいと思っているイベントなど、「店舗」を超えた楽しい時間・場所・チャネルで顧客を魅了することもできます。
こうした小売企業は顧客の信頼の輪の中におり、顧客が喜んで自分の生活に受け入れる数少ない組織の1つなのです。もたらされる価値を消費者が感じ取り、評価を高めるほど、小売企業が消費者との関係を深め、拡大する機会は増えます。場合によっては、やがて愛着が高まり、もっと購入してくれるようになるかもしれません。これは、顧客を囲い込むということではありません。輪の中にいれば、顧客との関係を見直すこともできますが、顧客から認めてもらう以外に、この輪に加わる手段はありません。
競合他社によって顧客の期待値が上がり続けているときにこのような関係を構築し、維持するのは難しいことです。特に、不確実性と財政的な圧迫が極度に高まっている時期であればなおさらです。しかし、大規模な小売企業が存続を図るのであれば、これがおそらく唯一の選択肢です。

第2章
顧客にとって本当に価値があるものを提供するには
時間の節約、問題解決、エクスペリエンスの創出という3つの要素を組み合わせて、存在価値を示すことができる価値提案を構築しましょう。
あらゆる顧客の生活にうまく溶け込める小売企業は多くありません。顧客が本当に望んでいるものを把握すること、また、その顧客に合った価値提案を構築し、最適なエクスペリエンスと品ぞろえを実現して、適正な価格でタイミングよく届けることが課題です。

その新たな価値提案に対する信頼を得るためには、小売企業のコア・アイデンティティーに根差した提案にする必要があります。一方、価値創造の新たな機会を小売業界で切り開く上では、過去の成功体験を超えるものを構築することがリーダーには求められます。顧客と企業の双方にとって適切な価値を創造できるよう提案内容を調整することで、企業の存在価値と信頼を確立することができます。
顧客の生活にさらに溶け込むための3つの機会(無形化、不可欠化、親密化)はそれぞれ、時間の節約、問題解決、価値あるエクスペリエンスの提供という3つの価値提案に結び付いています。この3つ全てを理想的に組み合わせて顧客に提供できるような提案が、説得力のある、他とは一線を画す提案だと言えるでしょう。
1. 時間の節約
これは、貴社が行っていることをほぼ無形化することで、顧客の生活の欠かせない一部となるという価値提案です。顧客が必要としているものを迅速に、利便性高くかつ効率的に提供することに重点を置きます。さまざまなチャネルとモデルを通じて自動化とデジタル機能を駆使することに長けた事業者が、優れた「時間の節約を可能にする企業」です。それらの企業は資産ポートフォリオ、デジタルインフラ、摩擦を最小限に抑えるよう工夫した物流を有し、薄利多売を実現しています。またサブスクリプションや自動補充などのフルフィルメントモデルを利用し、先手を打って顧客のニーズや好みについての情報を収集・整理します。例えば、自宅のIoT冷蔵庫とつながっている食料品店には、在庫が少なくなってきたタイミングや、何を補充する必要があるかが分かります。
2. 問題解決
2番目は、なくてはならないものを提供することで、顧客の生活の欠かせない一部となるという価値提案です。顧客のニーズを総合的に満たす商品やサービスを1つにまとめて生み出すことに重点を置きます。成果を出すことに優れた事業者が、最高の「問題を解決する企業」です。それらの企業は、広範なパートナーエコシステムから商品とサービスを選び抜き、それらを組み合わせて編成します。利益を度外視して商品とサービスを提供することも多々ありますが、それはあくまでも利益率の高いサービスを提供する一環としてのことです。例えば、販売している食料品の栄養成分表を、自社が提供する健康保険の保険料にリンクさせている企業があります。
3. エクスペリエンスの創出
最後となる3番目は、親密性に根差したエクスペリエンスを創出することで、顧客の生活の欠かせない一部となるという価値提案です。ショッピングが有意義で満足感の得られる娯楽と思えるくらい、顧客を楽しませることができる充実したエクスペリエンスを提供することに重点を置きます。優れた「エクスペリエンスを創出する企業」にとって、商品は、それを取り巻くサービスやエクスペリエンスに次ぐ副次的なものです。顧客がそこで過ごしたいと思うようなデジタル空間や物理的空間を作り上げ、小売企業と顧客との間で価値観を共有できれば企業側の勝利です。個々の顧客に関わるあらゆるやり取りとサービスのエクスペリエンスを最適化することで、身近な存在となります。これはプレミアムブランドや高級品に限った話ではありません。特売品を見て回ることを含めて、顧客が楽しいと感じることなら何でも魅力的なショッピングエクスペリエンスになり得ます。例えば、ソーシャルイベントを主催して、商品の販売で収益を上げる企業もあります。
関係を継続させる中での価値
どのような価値提案を新たに定義するにしても、販売後も継続される関係の中で顧客に価値を創造できるような柔軟性を持たせる必要があります。一方で、常にその時々の状況に合わせることも重要です。さもなければ、望まれもしない「ノイズ」になってしまう恐れがあります。例えば、食品小売企業は、顧客が家族のために簡単に食べられるものを買おうとしているときには価値提案の「時間の節約」部分を強化し、どのワインを選ぶべきかアドバイスを必要としているときには「問題解決」の部分を強めることができるでしょうか? あるいは、オンラインの料理教室やレシピを通じてインスピレーションを与えることで、「エクスペリエンスを創出」する企業として切り替わることができるでしょうか? これら全てを実現することは不可能かもしれません。全ての人にあらゆる面で対応することはできません。その代わりに、小売企業は自らの強みを発揮するのに適したモデルと業態の組み合わせを見いだす必要があります。

第3章
消費者の生活を充実させるために必要なこと
現在の立ち位置から、顧客が望む立ち位置へと移行するために。
今は小売企業にとって極めて厳しい時期ですが、顧客に提供する商品やサービスを見直せば、顧客からの評価が高まる可能性があります。それには、ビジネスの手法を変え、新たなケイパビリティを構築し、決断力を持って迅速に行動する必要があるでしょう。多くの企業にとって、商品を選りすぐって販売することは、独自の差別化要因を見いだすことや、バリューチェーン全体を保有すること、あるいはデジタルエコシステムやより広範なエコシステムに加わることにつながります。
存在価値を確立する3つの機会:
1. 顧客の声に耳を傾け、何をいつ求めているかを把握する
信頼できる小売企業と見なされるための極めて重要な最初のステップは、価値観を共有し、自社の約束(プロミス)に賛同してくれる顧客層にフォーカスすることです。誰もかれも満足させようと、全ての人にあらゆる面で対応しようとすれば、誰ひとり満足しないということになりかねません。
顧客の声に積極的に耳を傾けて、商品を知った時点からアフターサービスまでのカスタマージャーニー全体をカバーする360度の視点を構築することで、顧客のニーズをより的確に把握することができます。顧客の信頼の輪に入るためには、まずこうした洞察を行うことから始めます。それにより、顧客にとって重要な、欲しいと思った瞬間に商品やサービスを提示してアピールする機会を得られます。
学んだ内容を自社の事業に取り込むことで、小売企業は顧客に何を提示するかを決め、それを具現化し、改良することができます。単に一人一人に合わせたプロモーションを行うだけでなく、顧客満足度を高めることが可能になります。また、これらのデータインサイトを、品ぞろえ、商品の補充、サプライチェーンなどに関する経営判断の参考にすることもできます。こうして好循環が生まれ、顧客にも事業にも価値をもたらすでしょう。
2. 必要なときに、いつでもどこへでも顧客のもとに駆け付けられるよう投資や提携を行う
小売企業は前例のない変化に直面しており、顧客のニーズに大規模かつ迅速に対応する新たな方法を見いだす必要に迫られています。必須とされるケイパビリティの全てを社内で構築することはできません。
顧客の生活の一部になることを模索する企業が増えるにつれ、注目を集めるための競争は激化するでしょう。信頼を得るためには、より的確な決定をより迅速に下さなければなりません。自社の店舗やアプリケーション内にとどまることなく、デジタル空間と物理的空間で、顧客を魅了したり、顧客が充実感を味わえるタイムリーかつ効果的な方法を見いだす必要があります。
志を同じくするパートナーのネットワークを構築するか、そうしたネットワークに加わることで、新しいツール、プラットフォーム、スキル、サービス、商品、市場、顧客により早くアクセスできるようになります。第三者に投資するという手もあります。消費者に存在価値を示し続けるためには、全ての当事者が互いに信頼し合い、おのおのがどのような貢献をしているかを理解した上で期待に応えなければなりません。何が効果的で何を改善する必要があるのかを明確に把握できる、実用的なデータの共有が必要です。
3. 真にデータ主導型の企業になる
顧客が期待しているのは、実店舗とデジタル店舗が組み合わさったシームレスなオムニチャネルエクスペリエンスです。信頼の輪の中にとどまるためには、顧客をよく理解し、魅了して、存在価値を認めてもらわなければなりません。しかし、業務やチャネルのサイロ化が妨げになっている場合には、総合的な経営判断を下すことは困難です。
ビジネスのあらゆるパートをつなげて、データをリアルタイムで利用し、カスタマージャーニーをサプライヤー、パートナー、およびその他のビジネス関係者とリンクさせる必要があります。総合的なデータプールを一元的に構築するためには、多くの場合、テクノロジーインフラを全社的に見直す必要が出てくるでしょう。ビジネスのあらゆる分野を巻き込まなければなりません。
当然のことながら、新たなテクノロジーと、それに伴うディスラプション(創造的破壊)を活用することをためらう企業もあります。しかし、こうしたテクノロジーやディスラプションは、小売企業と顧客の関係を深める変革の機会をもたらします。データを活用してスタッフの能力を育成する体制が最も整っているのは、分析能力に優れた企業でしょう。データのインサイトを生かし、そこに人間の判断を加味することで、個々のカスタマーエクスペリエンスを向上させることが可能です。適切なテクノロジープラットフォームを整備し、データに精通すれば、価値提案の成否を測定して収益性を高めることができます。
他社よりこのような方向転換をしやすい小売企業もありますが、多くの企業が何よりもまず懸念しているのは現状を乗り切ることができるかどうかです。新型コロナウイルス感染症が拡大する前から変革を進めていた企業はライバルよりも良い業績を上げています。しかし、他社が顧客の期待値を上げ続けると、どの企業も安穏とはしていられません。レガシーが足かせとなって、なかなか変われない企業にもはや選択の余地はほとんどありません。とりわけ店舗の果たす役割が著しく大きい企業や、他社商品の販売に依存する企業は、自社の存在価値を示すことが急務です。
その一方で、全ての小売企業が行わなくてはならないのが価値提案の見直しです。顧客が変化するスピードはかつてないほど早く、変化についていけない企業は存在価値を失いかねません。しかし、こうした既存の価値が打ち砕かれる時代には、消費者の生活に溶け込むことで、より深く有益な関係を築くことができる可能性もあります。
サマリー
新型コロナウイルス感染症の拡大により、人々の買い物の仕方や購入する内容の根本的な変化が加速しています。小売企業は、現在、そして将来にも存在価値を示すことができる新たな価値提案を構築することが求められています。それには、顧客中心主義という従来の定義から踏み出し、生活をより楽にしたい・快適にしたい・充実させたいという消費者の根源的なニーズに対処することで、本当の意味で顧客の生活に溶け込む必要があります。これを実現させるには、時間の節約、問題解決、エクスペリエンスの創出という3つの要素をうまく組み合わせて顧客に価値提案を行わなければなりません。