EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバルネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。
特に日本の金融機関は、効果的なリスクマネジメントを実施し、競争力を高めるために、行動科学を活用した新たなアプローチを導入する余地があります。これにより、リスク意識を高め、持続可能な成長を実現に資することが可能となります。
要点
急速に変化する現代社会において、地政学的リスクの増大や自然災害の深刻化、テクノロジーの進化、そして金融犯罪の巧妙化といった要因が、企業や組織にとっての不確実性を一層高めています。特に、グローバル化が進む中で、国際的な経済情勢や政治的な動きが企業活動に与える影響は計り知れず、これまでの経営戦略やリスク管理手法では対応しきれない局面が増えています。このような状況下で、日本の金融機関が経営のかじ取りを適切に行うことは極めて難しいでしょう。混沌(こんとん)とした時代において、複雑なリスクトレンドが経営に与える影響を予測し、効果的なリスクマネジメントを実施することは、ますます困難になっています。
これまでの金融機関におけるリスクマネジメントは、主に「規制等に基づき、コストを抑えつつ最低限必要な競合他社と同等の対応にとどめる」というアプローチが主流でした。しかし、現在ではこの考え方が変わりつつあり、リスクマネジメントは「戦略の実行に不可欠な重要機能として経営判断に統合され、高い実効性をもって日々の業務に浸透させる」方向へと進化しています。これにより、リスクマネジメントは単なるコストセンターから、企業の競争力を高めるための重要なドライバーへと変貌を遂げています。
これまで一定の投資を続けてきたさまざまな仕組みはリスクやコンプライアンスの高度化に資するものでしたが、新たな不確実性に対しては限界が生じているように見受けられます。ガバナンス態勢の整備や規定の更新、ストレステストやシナリオ分析の再構築、フロントオフィスにおけるリスクオーナーシップの徹底など、各種運用の高度化は一定の成果を上げてきましたが、長期的な態勢整備に向けた継続的な投資にもかかわらず、不正や不祥事は後を絶たないのが現実です。これは、単に制度やルールの問題ではなく、組織文化や価値観の根本的な見直しが求められていることを示唆しています。
例えば、大手損保会社において顧客の個人情報が大規模に漏えいする事件が発生し、多くの社員がその行為を「不正」と認識していなかったことが明らかになりました。このような事例は、現在の取り組みの限界を浮き彫りにしています。表面的な不正や不祥事は、実際には組織文化や内部統制の欠如を反映していることが多いのです。つまり、リスクマネジメントが形骸化し、実際の業務運営においては軽視されているという状況が生まれています。
これらの問題には根本的な原因を突き止めて対処する必要があります。全役職員の行動指針となるリスクマインドの向上やリスクカルチャーの醸成が重要であることは理解されていますが、雲をつかむような課題への対応は容易ではありません。リスク意識を高めるためには、組織全体での意識改革が不可欠であり、これには時間と労力が必要です。
そこで、世界的に注目を集めているのが、心理学や行動経済学などの科学的知見を取り入れたBX(行動科学トランスフォーメーション=Behavioral Insight Transformation)アプローチです。このアプローチは、行動科学の原則を活用して、組織内のリスク意識を高め、実効性のあるリスクマネジメントを実現することを目指しています。具体的には、従業員の行動パターンを理解し、適切なインセンティブを設けることで、リスクに対する意識を高めることが可能となります。
科学は、研究者が長年にわたり積み上げてきた知の結晶であり、公開された論文から得られるインサイトを活用することで、企業が独自に試行錯誤するよりも圧倒的に効率的なショートカットが可能となります。いわば「先人の肩の上」に立つことで、無駄な努力を避けることができます。金融業界においては、欧州のHSBC、スタンダードチャータード、ABNアムロなど、さらには米グーグルが実施した「プロジェクトアリストテレス」などでも行動科学を用いた先行事例が存在します。これらの事例は、行動科学の知見を活用することで、リスクマネジメントの新たな地平を切り開く可能性を示しています。
具体的には、5段階のアプローチを採用しています。まず、Step1(対象行動・スコープ定義)では、「誰の」「どの行動を」「どのように変容させるか」を明確にします。その上で、リスク管理方針や直面している不正リスクを考慮し、行動変容の対象とする不正リスクの優先度を決定します。
Step2(診断)では、不正を引き起こす原因や前兆指標を洗い出します。リスクカルチャーや不正抑止といった「雲をつかむような」課題は、科学的知見を問題解決のレンズとして用いることが非常に有効です。
例えば、2023年に世界的に著名な心理学専門誌であるPsychological Reviewで発表されたBPREDモデルを活用すれば、Benefit(不正で得られるメリット)、Punishment(不正発覚時の罰則の小ささ)、Risk(発覚確率の低さ)、Execution cost(不正行動の実行コストの低さ)、Dissonance(不正行動をする際の内面的葛藤の低さ)の5つの観点から不正の根本原因を整理できます。また、心理的安全性の低下など、不正の兆候となり得る前兆指標も、先行研究を基に特定することが可能です。
中盤のStep3(施策設計)では、診断結果で特定された原因に直接働きかける介入策を具体化します。不正抑止には「正論としての納得(うなずき顔)」だけでなく、「日々の業務を回す現場目線(やりくり顔)」へのアプローチが欠かせません。実際、複数の研究を統合したメタ分析によれば、倫理観への訴求(研修等)よりも、発覚可能性を高める施策(監視)の方が不正抑止には効果的であると報告されています。
そのため、例えば実効的な監視体制を導入し「見られている感」を高めるといった方策の強化余地を検討することができます。また、不正抑止に関する心理学的な研究だけでなく、ノーベル経済学賞を受賞したナッジ(社会的規範を活用して人々を望ましい方向へ誘導する手法)などの行動経済学的知見も活用します。
さらに、これらの施策を既存の経営管理サイクルや統制システムと連携させ、日々のリスク管理の運用とも整合性を図ることで、長期的に機能する仕組みを構築します。
続くStep4(効果検証・モニタリング)では、導入した施策の効果をデータに基づいて検証します。不正発生件数などの結果指標だけでなく、診断で特定した「前兆指標」やBPREDモデルに基づく「原因指標」の動向を追跡するKPIダッシュボードを開発・運用し、継続的に施策を評価・改善しながら全社に展開します。こうした仕組みが動き始めれば、重大インシデントの未然防止につながるだけでなく、金融当局からの評価向上も期待できます。
最後のStep5(全社・他領域展開)では、試行で得られた成功事例を他部署や別の不正抑止領域に展開し、行動科学ドリブンのリスクカルチャーを組織全体に浸透させます。従業員研修や人事評価制度への統合、「社内チャンピオン」の育成などを通じ、行動科学的な要諦を踏まえたリスクカルチャーを定着させる基盤を整えます。その上で、ガバナンスモデルを構築し、継続的に評価・改善を行うことで、長期的な効果の維持が可能となります。
このように、「先人の肩の上」に立つBXアプローチを活用すれば、リスクカルチャーや不正抑止といった「雲をつかむような」課題に対しても、迅速かつ実効性の高い対策を策定することが可能となります。科学的知見を基にしたこのアプローチは、単なる理論にとどまらず、実際の業務においても効果を発揮します。
リスクカルチャーを醸成する取り組みの成果を測ることは決して容易ではありません。短期的にその効果を検証しようとすると、期待外れの結果に直面し、落胆することも少なくありません。しかし、重要なのは、長期的な視点を持ち、じっくりと腰を据えて取り組むことです。単に自社の改善に努めるだけでなく、最終的には日本の金融市場全体の成熟度向上や国際競争力の強化に寄与することを目指すという強い信念を持ち続けることが肝要です。このような姿勢が、持続可能な成長と健全なリスクカルチャーの確立を実現する鍵となります。
また、リスクマネジメントの新たな枠組みを導入することで、組織全体がリスクに対する意識を高め、変化に柔軟に対応できる体制を築くことができます。これにより、企業は不確実性の高い環境においても競争力を維持し、さらなる成長を遂げることが可能となります。最終的には、リスクをチャンスに変える力を持つ組織へと進化し、未来の金融市場においてもその存在感を示すことが期待されます。
BXアプローチは、行動科学を活用して実効性のあるリスクマネジメントを実現します。HSBCなどの欧州企業が先行事例として、新たな地平を切り開いています。EYでは5段階の科学的知見を基にした単なる理論にとどまらず、実際の業務においても効果を発揮するアプローチを採用しています。