連載「TISFDと日本企業」 第1回 TISFD対応を「コスト」から「戦略資産」へ再定義するには

連載「TISFDと日本企業」

第1回 TISFD対応を「コスト」から「戦略資産」へ再定義するには

「社会課題は経営リスクか、それとも成長のチャンスか?」

いま、企業が直面する分断・格差・信頼の揺らぎ――これらは単なる外部環境ではなく、経営の中核にあるべきテーマです。本記事では、2024年に始動したTISFD(不平等および社会関連の財務情報開示タスクフォース)を通じて、「人と社会」をどう測り、どう経営に生かすかを探ります。「コスト」から「戦略資産」へ――社会との関係性を再定義する第一歩を、読者の皆さまの組織でも始めてみませんか?

要点

  • TISFDは「社会版TCFD/TNFD」
    企業が人や社会との関わりを財務的に可視化するための国際的枠組みとして、TISFDが2024年に発足。人権・ウェルビーイング・人的資本などを統合的に捉える新しい視点を提供する。
  • IDROという新しいレンズ
    Impact(影響)、Dependency(依存)、Risk(リスク)、Opportunity(機会)という4要素を「人々の状態」を中心に再構成し、企業活動と社会の健全性を結び付ける分析手法を提示。
  • 社会課題は“コスト”ではなく“戦略資産”
    架空の中堅製造業A社のケーススタディを通じて、TISFDの考え方が企業のレジリエンスや金融対話の質を高める実践的なツールであることを示す。

第1回 TISFD対応を「コスト」から「戦略資産」へ

1. いま、なぜTISFDなのか

ここ数年、世界のどこを見ても「分断」という言葉を耳にします。

所得や資産の格差は広がり、最も恵まれた10%の人たちが世界の富の約4分の3を持ち、その一方で、生活費の高騰や気候変動の影響に苦しむ人が増えています。この流れは、企業にとってもひとごとではありません。社会の不安定さは消費や投資の減退を招き、やがて市場全体の成長を押し下げます。つまり、不平等は企業にとっての経営リスクであり、社会全体にとってのシステムリスクでもあるのです。
(出典:TISFD "People in Scope," p.3,8)

こうした背景から2024年に立ち上がったのが、TISFD(Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures)――日本語で「不平等および社会関連の財務情報開示タスクフォース」です。少し堅い名前ですが、要するに企業や金融機関が人や社会との関わりを、どう測り、どう報告し、どう経営に生かすかを共通の言語で示そうという国際的な取り組みです。(出典:TISFD "People in Scope," p. 6)

2. TISFDはどんな仕組みか

TISFDは、いわば「社会版TCFD/TNFD」*1とも呼べる存在です。気候変動や自然資本の情報開示を定着させたTCFDやTNFDの成功モデルをもとに、社会分野――特に「人」に焦点を当てた仕組みを整えようとしています。設計思想の根底には、「人を中心に据える」という考え方があります。人権・ウェルビーイング・人的資本・社会関係資本――これらをばらばらに扱うのではなく、人々の生活や機会の質を一つのレンズで見ていこうという発想です。
(出典:TISFD "People in Scope," p. 13)

TISFDの開発プロセスもオープンで協働的です。運営はステアリング・コミッティを中心に、事務局、ワーキンググループ、そして企業・投資家・市民社会が参加する「アライアンス」という協議体が支えています。各国の状況に合わせるため、地域評議会の立ち上げも予定されており、グローバルだが一方通行ではない構造が特徴です。
(出典:TISFD "People in Scope," p.16-19)

現在TISFDは6つの段階(フェーズ)で動いており、いまはフェーズ2「関係者の能力構築」とフェーズ3「概念基盤の整備・エビデンス構築」を実施しています。つまり、まさに「これから形を作る段階」にあるのです。このいまのタイミングに関わることが、企業にとって先行優位になる理由です。
(出典:TISFD "People in Scope," p.18–19)

*1 Task Force on Climate-related Financial Disclosures(気候関連財務情報開示タスクフォース):2015年にG20の要請を受けて金融安定理事会(FSB)が設立。企業や金融機関が、気候変動によるリスク・機会をどのように認識し、経営や戦略に組み込んでいるかを開示するための国際的枠組みです。
Taskforce on Nature-related Financial Disclosures(自然関連財務情報開示タスクフォース)2021年に設立された国際イニシアチブで、企業が自然資本(生物多様性・水資源・土地利用など)との依存関係や影響を評価・開示する仕組みを整備しています。TCFDの「気候」に対し、TNFDは「自然」領域をカバーします。

3. IDRO――「人を起点に考える」ための4文字

TISFDでは、「IDRO」という言葉がキーワードになります。Impact(影響)・Dependency(依存)・Risk(リスク)・Opportunity(機会)。どれも見慣れた言葉ですが、TISFDではそれらを人々の状態を中心に再構成します。例えば企業活動は、従業員や取引先、消費者、地域コミュニティなどに、直接的・間接的に影響を与えます。それが正の影響であれ負の影響であれ、最終的には「人々の健康・教育・安全・生活の質」といった人の状態(People’s state of being)に帰着すると整理するのです。

同時に、企業はその人々の知識や技能、信頼、社会制度に支えられて生きています。つまり「依存(Dependency)」も避けては通れません。TISFDは、この影響と依存の連鎖を構造的に見える化し、人・組織・市場を貫く共通言語をつくろうとしています。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope," p.14–16)

4. リスクと機会をどう見るか

TISFDが特徴的なのは、リスクを2層構造で捉える点です。

一つは「エンティティレベル(entity-level)」のリスク。自社の事業活動から直接生じるもので、労務・安全・差別・サプライチェーン・評判・規制対応などが典型です。
(出典:TISFD "People in Scope," P.10)

もう一つは「システムレベル(system-level)」のリスク。これは社会全体に蓄積する構造的なリスクで、不平等の拡大や信頼の低下といった問題が長期的に市場の安定を揺るがします。例えば、教育格差や生活賃金の不足は、労働力の質を低下させ、結果として生産性や経済成長を押し下げる――。これこそが、TISFDが最も重視する見えにくいリスクなのです。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope," p.17-18)

逆に言えば、こうした社会的課題に積極的に取り組むことは、企業にとっての機会になります。生活賃金の支払い、教育やスキルアップの支援、製品アクセスの改善など、これらは一見コストに見えて、実はレジリエンスとブランド価値への投資です。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope," p.25–27)

5. ある中堅製造業A社の挑戦(架空のケーススタディ)

地方に本社を置く中堅製造業A社。近年、若年従業員の離職率が上昇し、下請け企業との摩擦も絶えませんでした。地域社会からも「かつてのような地元密着の姿勢が薄れた」と指摘され、金融機関からは「社会リスクへの対応方針を示してほしい」と求められました。

経営陣は「これは単なる人事課題ではない」と判断し、初めてIDRO(影響・依存・リスク・機会)の棚卸しに挑戦しました。
 

ステークホルダー別の棚卸し

A社が最初に行ったのは、主要なステークホルダーごとの影響・依存関係の整理です。

ステークホルダー

主な影響・依存

リスク

機会

従業員

労働時間、健康、安全への影響

離職・生産性低下

教育・スキル投資による生産性向上

サプライヤー

購買慣行、公正取引

供給停止、評判悪化

生活賃金・労働基準の改善

コミュニティ

税・雇用・環境負荷

地域関係の悪化

地域教育・雇用創出

消費者

製品安全・アクセス性

信頼低下

アクセス改善による市場拡大

この時点で、A社は「自社の改善点」は見えても、なぜ地域全体の雇用や信頼が弱っているのかという構造的背景までは把握できていませんでした。
 

エンティティレベルとシステムレベルのIDRO分析

次にA社は、TISFDが提唱する考え方に基づき、自社に直接関わるエンティティレベルと、社会・地域に波及するシステムレベルの両面からIDROを整理しました。

区分

IDRO要素

主な内容

エンティティレベル

(企業固有の範囲)

Impact(影響)

長時間労働や残業常態化が従業員の健康を損ない、生産性低下を招いていた。下請けへの価格圧力が品質低下を招いていた。

Dependency(依存)

技能工の高齢化が進み、地元の若手採用や職業訓練機関への依存度が高まっていた。

Risk(リスク)

労働訴訟・監督当局の是正・風評リスク。供給停止や品質トラブルによる操業リスク。

Opportunity(機会)

生活賃金導入と人材育成投資で採用競争力が向上。銀行から社会成果連動型融資の打診。

システムレベル

(地域・社会全体)

Impact(影響)

サプライヤーへの価格抑制が地域中小企業の賃金を押し下げ、若者流出を加速させていた。

Dependency(依存)

地域インフラと教育機関が自社生産体制の生命線。自治体財政の健全性が物流・雇用の維持に不可欠。

Risk(リスク)

地域の雇用縮小が消費低迷と治安悪化を誘発し、再び企業に跳ね返る。

Opportunity(機会)

地元学校との産学連携で技能継承を進め、自治体と技術人材育成プロジェクトを共同実施。地域全体で、変化に強い・しなやかな経済基盤をつくる。

経営判断と新しい金融対話

棚卸しを経て取締役会は、「企業単体の効率性」と「地域全体の持続性」をてんびんにかけるのではなく、両者を同時に高める方向にかじを切ることを決めました。その象徴が、金融機関との新しい対話です。A社は銀行と協働し、「生活賃金の達成」や「下請け支援」を条件に組み込んだサステナビリティ・コベナンツ(社会的条件付き融資契約)を締結しました。融資条件の一部を、従業員や地域への成果に連動させたのです。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope," p.44-45)

この契約をきっかけに、社内では「社会課題はコストではなく戦略資産だ」という考えが定着しました。従業員の定着率が上がり、サプライヤーとの信頼関係も改善。地域の高校・専門学校との連携講座が始まり、自治体との共同プロジェクトも生まれました。外から見れば、まだ数字には表れない「小さな変化」かもしれません。しかし社内では、長く失われていた誇りと結束が確実に戻りつつあります。

A社の経営陣は語ります。

「これまで社会課題は外部環境だと思っていました。けれど、IDRO分析を通じて、社会の健全性そのものが当社の経営指標だと分かったんです。企業の持続可能性は、社会の持続可能性と同じグラフの上にあると、実感できました」

6. 最初の一歩:4本柱で整理する

TISFDでは、社会分野の開示を4本柱(Four Pillars)で整理します。

つまり、

  1. ガバナンス(誰が責任を持つのか)
  2. 戦略(どこに向かうのか)
  3. リスク管理(どう見極め、備えるのか)
  4. 指標と目標(どう測り、進捗を示すのか)という枠組みです。

もし読者の皆さまの組織がこれからTISFDを考えるなら、まずこの4本柱を社会版として点検してみることをおすすめします。

例えば、

  • 取締役会に「人・格差」分野の専門性を加えていますか?
  • ステークホルダーごとに目標と成果を定めていますか?
  • IDROの棚卸しを定期的に行い、契約や融資条件に反映していますか?
  • 成果(アウトカム)と行動(ドライバー)の両面を測定できていますか?

これらの問いに答えていく過程こそが、TISFDへの第一歩です。

7. これからTISFDをどう生かすか

TISFDはまだ「開発途中」の取り組みです。だからこそ、今のうちに関わる企業や金融機関には、ルールを作る側に立てるという大きなメリットがあります。「人に投資することが、社会を強くし、結果として企業価値を高める」――それを数字と言葉でどう示すか。TISFDは、その新しい共通言語をつくる試みなのです。日本でも、すでに幾つかの企業や金融機関がパイロット的な動きを始めています。TISFDの第1次開示フレームワークは、2026年をめどに公表予定ですが、準備を始めるなら、今がグッドタイミングです。
(出典:TISFD "People in Scope,” p.21)

TISFDが気になった読者の皆さまへ

① まずやること:4本柱の簡易チェックリスト

4本柱

確認したいこと

ガバナンス(経営体制)

取締役会の中に「人と格差」に詳しいメンバーを置きましょう。会社として、人や社会に関する成果指標をどう見守るか(個別の課題と社会全体の課題をどう区別して扱うか)をはっきり決めておくことが大切です。

戦略(方向付け)

社員・取引先・地域・顧客など、関係する人や組織ごとに目指す成果を設定します。「人への配慮」と「環境への取り組み」が両立するように、気候や自然の移行計画とも整合をとりましょう。

リスク管理

人や社会に関する影響・依存・リスク・機会(IDRO)を毎年整理して見直します。取引契約や融資契約には、人権や労働など社会面の条件を明記した共通のテンプレートを導入すると効果的です。

指標・目標(測定と評価)

成果(実際に人々や社会に起きた変化)と、その成果を生む行動や仕組みの両方を測ります。短期的な動きを示す「先行指標」と、後から現れる結果を示す「遅行指標」を組み合わせて設計しましょう。

② 立場別に見たネクストアクション

立場

まず取り組みたいこと

経営層(取締役会など)

次回の取締役会では、「IDRO(影響・依存・リスク・機会)の棚卸し」と「4本柱(ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標)に基づく今後のロードマップ」を正式な議題として扱いましょう。経営として人と社会をどのように位置づけるかを明確にすることが第一歩です。

財務・IR部門

有価証券報告書や統合報告書の「人的資本」や「サステナビリティ」項目の中で、IDROの考え方をどこに位置づけるかを整理します。自社が人や社会にどのように依存し、どんな成果を目指しているのかを簡潔に伝えることがポイントです。

投資家・運用機関

投資方針やエンゲージメントのガイドラインに、「人・格差」に関する観点(コベナンツ)を試験的に取り入れてみましょう。データの流れを、グローバル本部(GM)→資産運用会社(AM)→発行体企業まで可視化し、どの段階で人への影響を評価できるかを確認します。

【共同執筆者】

山口美幸

CCaSS事業部シニアマネージャー

監査業務を経て、2017年より、気候変動サステナビリティサービスに従事。これまでに開発途上国におけるプロジェクト業務や、官公庁向けコンサルティング、⺠間企業向けサステナビリティアドバイザリーに従事。持続可能な社会の仕組みづくりを⽬指す。

サマリー 

TISFDは「社会課題の開示義務」ではありません。むしろ、企業や金融が人へのまなざしを戦略資産に変えるための設計図です。この連載では、次回以降「人権とウェルビーイング」「人的資本と社会関係資本」へと視点を広げながら、TISFDの考え方を実務に落とし込む方法を一緒に探っていきます。もしこの記事を読んで「もう少し詳しくTISFDについて聞いてみたい」と感じていただけたら、それこそがTISFDが生み出した最初の社会的インパクトかもしれません。


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