連載「TISFDと日本企業」 第2回 TISFD:人権とウェルビーイング―― 企業が守るべき最低基準と広がり

連載「TISFDと日本企業」

第2回 TISFD:人権とウェルビーイング―― 企業が守るべき最低基準と広がり

今、企業が直面する分断・格差・信頼の揺らぎ――これらは単なる外部環境ではなく、経営の中核にあるべきテーマです。

本記事では、2024年に始動したTISFD(不平等および社会関連の財務情報開示タスクフォース)を通じて、「人と社会」をどう測り、どう経営に生かすかを探ります。企業は人権とウェルビーイングをどう守り、広げるべきか?最低限の基準から、持続可能な成長につながる実践までを解説します。

要点

  • 人権とウェルビーイングの重要性
    企業価値の基盤は人権尊重とウェルビーイング推進。最低基準を守り、戦略的に拡張することで信頼と競争優位を確立。
  • 影響と依存の両面からの経営判断
    企業活動が人々に与える影響と、人材・社会への依存度を可視化し、リスク低減と機会創出を意思決定に組み込む。
  • 不平等の測定と改善への取り組み
    垂直・水平・地域の格差を指標化し、要因を分析。持続可能な成長に向けた改善策を企業戦略に反映する。

第1回ではTISFDが企業にとって「社会課題をコストではなく戦略資産として捉える」ための国際的枠組みであることを紹介しました。ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標という四本柱を軸に、企業が人や社会との関係をどう測り、どう経営に生かすかを整理する試みです。

今回は、その中でも「人」に焦点を当て、人権とウェルビーイング(幸福・健康・安全)というテーマを掘り下げます。企業が最低限守るべき基準とは何か、そしてそれを超えてどのように広がりを持たせることで、持続可能な価値創造につなげられるのか――その考え方と実践のヒントを探っていきます。

1. 人を中心に据える:影響×依存の“二つの見方”で考えてみよう 

「人を中心に据える」とはTISFDの根幹をなすコンセプトです。企業の活動は「人・社会」に依存する以上、この「人を中心に据える」アプローチは、単なる理念やCSR活動にとどまらず、企業の持続的成長や競争優位の獲得に直結する経営の中核的要素であるはずですが、一方で、企業が、社会的価値の創出を戦略資産として活用できているとは限りません。この“現状”と「人を中心に据えた経営」という“あるべき姿”との間の大きなギャップを放置すれば、グローバル市場での競争力低下や、サプライチェーン全体での人権リスク顕在化、ESG投資からの排除など、企業価値の毀損(きそん)につながる恐れがあります。逆に、人権尊重、公正な待遇、ウェルビーイングの向上に取り組むことは、信頼を築き、イノベーションを促進し、人材の獲得・定着や長期的な組織の安定性につながります。また、先進的な取り組みを行う企業は、投資家や顧客からの信頼を獲得し、新たな市場機会を創出など、競争優位を確立しています。
(出典:”TISFD Conceptual Foundations Discussion Paper” p.8, 26)

図1 不平等と社会関連の影響、依存関係、リスク、機会に関する概要

図1 不平等と社会関連の影響、依存関係、リスク、機会に関する概要
People in Scope p.10 Figure A - A High-Level Overview of Inequality and Social-related Impacts, Dependencies, Risks and OpportunitiesよりEY作成

では、企業が「人」を中心に据えるとは、具体的にどのような視点や行動を意味するのでしょうか。TISFDでは、企業活動が人々や社会に及ぼす「影響(Impacts)」と、企業自身の人々の能力や社会的つながりへの「依存(Dependencies)」――この“二つの見方”を統合的に捉えることが重要だとされています。

影響(Impacts):

企業や金融機関は、従業員・バリューチェーン上の労働者・地域社会・消費者など、さまざまな人々の生活や権利、ウェルビーイングに対して、①直接的および間接的、②意図的および意図しない、③ポジティブおよびネガティブな影響を与える存在です。

依存(Dependencies):

一方で、企業や金融機関自身も、人々のウェルビーイング・能力・信頼、社会の安定といった「人」に根本的に依存しており、これらがなければ持続的な成長や経営は成り立ちません。

例えば、エンティティレベル(個々の企業や組織)における人々への正の影響が社会の安定性の向上といったシステムレベルの機会につながる一方で、エンティティレベルにおける人々への負の影響は不平等の拡大や社会・金融システムの不安定化といったシステムレベルのリスクを引き起こす可能性があります(図1)。企業は「人々」を中心に据え、企業が人々のウェルビーイングや不平等にどのような影響を与えるか、そして企業自身が人々の能力や社会的つながりにどれほど依存しているかを両面から捉える必要があります。

影響と依存の両面を可視化することで、企業は自らの活動が社会や人々にどのようなリスクや機会をもたらすかをより深く理解することができます。そのため、単なるリスク管理にとどまらず、社会的価値の創出や長期的な経済的安定にもつながる戦略的意思決定を可能にします。影響と依存が複雑に絡み合うことで、システミックリスク(社会全体や経済全体に波及するリスク)や新たな機会も生まれるため、両者を統合的に捉えることが不可欠です。
(出典:" People in Scope" p.10)

企業や金融機関は、自社の「影響と依存」を考える切り口は、人権尊重、ウェルビーイングの向上、人的・社会的資本という3つの視点で整理することができます。つまり、自組織の活動がこれらにどのような「影響」を与えるのか、そして、これらの要素にどれだけ「依存」しているかを把握し、その影響・依存度を評価する、ということです。

図2 社会問題へのアプローチにおける主要な視点の概要

図2 社会問題へのアプローチにおける主要な視点の概要
People in Scope p.13 Figure B - An Overview of Key Lenses for Approaching Social Issues よりEY作成

2. 人権=まず守るべき土台:最低ラインと企業の役割を整理

「人権」は人が生きる上で最低限守られるべき基準として、人種、性別、国籍、民族、言語、宗教、その他いかなる属性であっても関係なく、人間であること自体により、すべての人に保障される権利です。そして、企業は、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」(UNGPs)やOECD「多国籍企業ガイドライン」にのっとり、事業活動やバリューチェーン全体において人権を尊重すること、つまり自社の事業、製品、サービスに関する人権侵害を防止し人権への悪影響に対して適切な対応をすることが求められています。

こうした人権に関する国際規範や法規制は最低限の基準=閾値(しきいち)として理解することができます。図3は、「安全」と「健康」という2つのテーマについて、「人権の閾値(最低限下回ってはならない基準=Threshold)」と「ウェルビーイングの多様な状態(人々が実際に経験する幅広い状態= Spectrum)」の関係を示しています。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope" p.10)

人権の閾値(Threshold)は、生命や身体の安全、健康的な労働環境など、絶対に守られるべき最低限の基準を表します。 

ウェルビーイングの多様な状態(Spectrum)は、健康・安全・所得・社会的包摂などの点で、人々が実際に経験する悪い状態から非常に良い状態(例:犯罪の発生、安全性の感じ方、平均寿命、健康状態など)の幅を示します。

人権に関する取り組みはマイナスの要素(負の影響が起こる可能性)をゼロに近づける最低限の取り組みです。その上で社会や企業は、「人」のウェルビーイングに関しする幅広い結果に対して、直接的・間接的に影響を与えることになります。

図3 人権とウェルビーイングの関係の概念化

図3 人権とウェルビーイングの関係の概念化
ISFD "Proposed Technical Scope" Figure C - Conceptualising the relationship between human rights and well-beingよりEY作成

ウェルビーイング=「人」の多様な状態:健康・学び・暮らしの質をどう見るか

ウェルビーイングとは人々の生活の全体的な状態を指し、健康、安全、充足感、目標の追求、良好な生活の質の享受の程度を反映するものです。人々のウェルビーイングは、健康、所得および資産、安全性、そして生きがい・目的意識に至るまで、幅広い側面を包含する概念です。ウェルビーイングを理解し、測定することにより、政府および企業は人々の状況を包括的に把握し、介入の効果があったかどうかを判断することが可能となります。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope" p.12)
 

人権・ウェルビーイングと人的・社会的資本との関係

企業や金融機関が人権の閾値を下回るような行動(例:極端な低賃金、差別、危険な労働環境など)を取ると、従業員の健康やスキル(人的資本)、職場や地域社会の信頼や協力関係(社会的資本)が損なわれます(=負の「影響」)。そして、人権、ウェルビーイング、人的・社会的資本に「依存」する企業活動にとっての「リスク」となります。逆に、閾値を守り、さらに、ウェルビーイングを推進することなどを通じて、人的・社会的資本を高めることは(=正の「影響」)、企業や社会全体の持続的な成長や価値創出(=「機会」)につながります。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope" p.10)

人的資本(Human capital):

人々の知識、技能、健康その他の状態を指し、経済、社会、そして人々の将来のウェルビーイングに価値を提供または維持するという観点から捉えられるもの。

社会的資本(Social capital):

人々、企業、その他の社会的主体の間に存在する関係性を指し、協力を促進し、組織、社会、そして人々の将来のウェルビーイングに価値を提供または維持するもの。

3. 格差の3つの切り口(水平・垂直・地域)を測る:成果×ドライバーで指標を組む 

TISFDの文脈における「不平等」とは、所得や資産、健康、教育、雇用機会など、人々のウェルビーイングのさまざまな側面における格差を指します。
(出典:TISFD "Proposed Technical Scope" p.13)

  1. 垂直的不平等(Vertical Inequality)
    同じ社会や集団の中で、最も恵まれている人と最も恵まれていない人の間に生じる格差。
    例:所得や資産の上位10%と下位10%の差、平均寿命の格差など。

  2. 水平的不平等(Horizontal Inequality)
    性別、人種、年齢、障がい、地理的背景など、特定の属性や集団間で生じる格差。
    例:男女間の賃金格差、人種や民族による教育・雇用機会の違いなど。

  3. 場所に基づく不平等(Location-based Inequality)
    地域や国、都市と地方など、地理的な場所によって生じる格差。
    例:都市部と農村部の医療・教育へのアクセスの違い、国ごとの平均所得や健康水準の差など。

人々の生活状況における不平等が著しい格差を生んでいる場合、企業や金融機関にも悪影響を及ぼされることが示されています。こうした格差の現状、例えば「男女間の賃金格差」、「地域ごとの健康寿命の差」などは、実際に社会に現れている不平等の“結果”です。しかし、こうした結果だけを見ても「なぜその格差が生じているのか」「どこに改善の余地があるのか」は分かりません。その格差を生み出している要因(ドライバー)――例えば「賃金制度」「昇進ルール」「教育機会へのアクセス」「雇用慣行」「差別禁止の取り組み」など――も同時に測定・指標化します。

図4 人々の状態に関する様々な側面における不平等を視覚化した図

図4 人々の状態に関する様々な側面における不平等を視覚化した図
TISFD "Proposed Technical Scope Figure D - An illustration of different types of inequalities, across a range of aspects of people’s state of beingよりEY作成

TISFDは、企業や金融機関が人々や社会に与える影響を標準化して可視化し、個社の活動と社会全体への影響を統合的に評価できる仕組みを目指しています。これにより、企業行動の社会的インパクトを比較可能にし、中長期的な企業価値も測定しやすくなります。
 

4. 大手小売りB社の挑戦(架空のケーススタディ)

B社は全国展開する大手小売りチェーンです。近年サステナビリティ経営への期待が高まる中、従業員の多様化や地域社会との関係性、労働条件・女性管理職比率・非正規の処遇・店舗アクセス性に加え、外国人顧客の増加やインバウンド需要による客層・言語の多様化、外国人従業員への差別やカスタマーハラスメント(カスハラ)といった新たな課題も顕在化してきました。

ステークホルダー別のIDRO(影響・依存・リスク・機会)の棚卸し
 

ステークホルダー

主な影響・依存

リスク

機会

従業員(正規・非正規)

労働時間、賃金、キャリア形成、福利厚生、多様な文化背景

離職率上昇、モチベーション低下、訴訟・損害賠償

働きがい向上、定着率改善、多様な人材活用、グローバル対応力強化

女性従業員

昇進機会、管理職登用、ワークライフバランス

ダイバーシティ不足による評判低下、生産性低下、離職

女性管理職比率向上による意思決定の多様化、ブランド強化

非正規従業員

処遇格差、教育機会、雇用安定性、労働力としての依存

不満・離職、社会的批判

正規転換・スキルアップによる戦力化、雇用の質向上

外国人従業員

言語・文化の壁、差別・カスハラ対応

職場内外での孤立、トラブル、法的リスク

多言語対応力・異文化理解の向上、グローバル人材の活用

顧客(日本人・外国人)

店舗アクセス性、バリアフリー、多言語対応・文化的配慮の状況

利用機会損失、評判低下

新規顧客層獲得、インバウンド需要取り込み、地域密着型ブランド強化

地域社会

雇用、インフラ、環境、多文化共生

地域との関係悪化、行政からの指摘

地域共創プロジェクト、自治体連携

エンティティレベルとシステムレベルのIDRO分析
 

区分

IDRO要素

主な内容

エンティティレベル

Impact(影響)

長時間労働や非正規の低処遇が従業員の健康・定着率に悪影響。女性管理職比率の低さが組織の多様性を阻害。外国人従業員への差別・カスハラによる職場環境の悪化。バリアフリー未対応店舗や多言語未対応が一部顧客の利用を妨げていた。

 

Dependency(依存)

地域人材・多様な雇用形態(外国人、女性、高齢者)、多様な顧客層(日本人・外国人・観光客)の購買力への依存。

 

Risk(リスク)

離職・人材流出、評判リスク、行政指導、訴訟リスク、カスハラ・差別問題の顕在化。

 

Opportunity(機会)

働き方改革・ダイバーシティ推進による人材確保、非正規・外国人の戦力化、バリアフリー・多言語対応による新規顧客獲得、グローバルブランド力の向上。

システムレベル

Impact(影響)

非正規雇用の多用や女性・外国人登用の遅れが地域全体の雇用・所得・社会的包摂、多文化共生に影響。

 

Dependency(依存)

地域インフラ・教育機関・行政支援、国際交流基盤への依存。

 

Risk(リスク)

地域経済の縮小、消費低迷、社会的孤立・分断の拡大、外国人差別問題の社会的批判。

 

Opportunity(機会)

地域学校・国際団体との連携による人材育成、自治体と協働したバリアフリー・多言語推進、地域イベント・国際交流共催によるブランド強化。

経営判断と新しい成長戦略への取り組み

棚卸しを経て企業Bは、労働条件の改善(シフト制の見直し、残業抑制、有給取得推進、健康経営認証取得)、女性管理職比率向上(女性リーダー育成研修や管理職候補の公募制、育休復帰支援)、非正規雇用者の処遇改善(生活賃金調査の導入、正社員登用制度拡充、教育・研修機会の均等化)、アクセスのしやすさ向上(全店舗のバリアフリー化、多言語対応スタッフ配置、オンライン接客サービス導入)、外国人顧客・従業員への多文化・多言語対応強化、カスハラ・差別防止策の徹底など、多角的な取り組みを推進しました。さらに、企業Bは国際人権基準に基づく人権方針を策定し、サプライチェーンを含む人権デューデリジェンスを実施し人権リスクをスコア化・可視化。ハラスメント防止や差別禁止の徹底、相談窓口の設置、従業員・取引先への人権研修も強化しました。取締役会はダイバーシティ&インクルージョン推進を経営戦略の柱に据え、地域社会や行政、金融機関と連携し、社会的成果連動型の評価・融資制度も導入。結果として、従業員定着率や顧客満足度が向上し、地域ブランド力も強化されました。
 

5. Just Transitionは人権課題である:移行計画での当事者との対話と雇用の移行支援

ここまで、人権尊重やウェルビーイングの向上、人的・社会的資本の強化が企業の持続的成長に不可欠であることについて解説しましたが、こうした人を中心に据える視点は、気候変動や脱炭素化に向けた移行プロセスにおいても同様に重要です。特に、移行の過程で生じる社会的影響をどう扱うかは、企業の責任と信頼性を左右します。そこで注目されるのが「Just Transition(公正な移行)」です。

Just Transitionを人権の視点から捉えると、移行プロセスにおいて最も重要なのは「当事者(労働者・地域住民・サプライチェーン関係者など)の権利と尊厳を守ること」です。そのためには、以下の2点が重要です。(出典:TISFD "Proposed Technical Scope" p.39-41)

  1. 移行計画策定段階における当事者との対話の徹底
    企業や政策決定者は、影響を受ける労働者や地域社会と早期かつ継続的に対話し、懸念やニーズを直接聞き取ることが求められます。これにより、移行の過程で生じる不利益や排除を未然に防ぎ、意思決定の透明性と正当性を高めることができます。

  2. 雇用の移行支援と人権の保障
    産業構造や事業モデルの転換に伴い、雇用の喪失や職種転換が発生する場合、単なる補償や一時的な支援にとどまらず、再教育・リスキリング、生活賃金の確保、労働条件の維持など、労働者の「生きる権利」「働く権利」を守る包括的な支援策が不可欠です。

Just Transitionの実現には、当事者の声を尊重した対話と、雇用・生活の移行を人権の観点から支える仕組みの両立が不可欠です。これにより、移行の痛みを最小化し、誰一人取り残さない持続可能な社会への道筋が開かれます。


【共同執筆者】

EY新日本有限責任監査法人 CCaSS事業部
三浦 舞子、石橋 美咲

※所属・役職は記事公開当時のものです。

サマリー 

企業の持続的な信頼と成長は、人権尊重とウェルビーイングの実践から始まります。TISFDを羅針盤に、企業活動の「影響」と「依存」を可視化し、リスクを機会へと転換しゆくことで企業の価値を共創、持続可能な成長を実現を可能にします。


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TISFDは「社会課題の開示義務」ではありません。むしろ、企業や金融が人へのまなざしを戦略資産に変えるための設計図です。この連載では、次回以降「人権とウェルビーイング」「人的資本と社会関係資本」へと視点を広げながら、TISFDの考え方を実務に落とし込む方法を一緒に探っていきます。もしこの記事を読んで「もう少し詳しくTISFDについて聞いてみたい」と感じていただけたら、それこそがTISFDが生み出した最初の社会的インパクトかもしれません。

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