観光イノベーション立国

観光イノベーション立国


情報センサー2016年8月・9月合併号 EY Institute


EY総合研究所(株)
未来社会・産業研究部 主席研究員 小川高志

経済産業省(旧通商産業省)入省、産業技術総合研究所、東京工科大学での勤務などを経て、2013年にEY総合研究所(株)入社。少子高齢化、健康長寿、観光・おもてなし、スポーツ成長戦略等課題解決や新産業創造のためのICT活用を中心に研究するとともに、大企業やベンチャー企業によるオープンイノベーションを支援。


Ⅰ はじめに:観光産業とイノベーション

1760年代からの第1次産業革命は、鉄道や蒸気船をもたらしました。19世紀に入ると、鉄道網は英国だけでなく欧州大陸に張り巡らされ、ロンドン万博、パリ万博などが開催されて、欧州を中心に大衆ツーリズムが興りました。こうした中、トーマス・クックは1843年、ホテルや交通機関の予約代行、団体列車の運行などを組み合わせたパッケージツアーを開発し、1874年には現在と同様の仕組みの旅行小切手(トラベラーズチェック)を発行するなど、新たなビジネスモデルを投入して、大衆ツーリズムを後押ししました。鉄道網や航路の開発と拡充、ツアーやトラベラーズチェックの登場とその後の旅行産業の隆盛を振り返ると、旅行・観光産業にもテクノロジーが深く関係していることがうかがえます。
21世紀に入って新興国の経済発展に伴うグローバル移動が急速に拡大していますが、ツーリズムは今後どのように変容していくのでしょうか。また、リアル・サイバー両空間での第4次産業革命が進行しつつある中で、旅行代理店や宿泊業など既存業界の枠組みを超えたビジネスチャンスはあるのでしょうか。
 

Ⅱ ロングテール観光需要の盛り上がり

2015年には訪日外国人旅行者数が2,000万人に迫りましたが、これにはビザ発給条件緩和などが大きく奏功し、中国人旅行者数はほぼ倍増となりました。観光庁「訪日外国人消費動向調査」の15年データによれば、中国人旅行者の63.0%は初めての訪日でした。他方、香港からの旅行者の場合、10回以上のヘビーリピーターは21.1%で初訪問18.1%を上回り、また、台湾からの旅行者も10回以上のヘビーリピーターは18.4%で初訪問20.7%とほぼ同水準にあります。
これらの国・地域からの旅行者が訪問した都道府県をみると、初訪日が大半を占める中国人旅行者は、東京→富士山→関西といったゴールデンルート(ボリュームゾーン)に集中しています。他方、リピーターが多い香港や台湾からの旅行者の訪問先については、ボリュームゾーン以外の北海道、北陸、九州、沖縄などにも分散しており、訪日回数が増えるにつれて、訪問先が日本各地に分散していることがうかがえます(<図1>参照)。日本は国土が南北に長く、文化や風土が異なるため、観光資源が豊富で楽しみ方も多岐にわたります。ボリュームゾーン以外の低頻度帯の需要を掘り起こす「ロングテール観光」に向けた取り組みが大切です。

図1 訪日旅行者訪問先都道府県分布に見るロングテール性

Ⅲ ビッグデータや人工知能の活用で新しいツーリズムが生まれる

一般社団法人日本旅行業協会「数字が語る旅行業2015」によれば、すでに、13年における国内旅行業者販売取扱高のうち約10%はインターネット経由であり、電子商取引サイト利用割合は他の業種より高くなっています。また、日本政策投資銀行・公益財団法人日本交通公社「DBJ・JTBF アジア8地域・訪日外国人旅行者の意向調査(平成27年版)」によれば、中国からのパックツアー以外の観光客の半数以上は、インターネット経由で宿泊施設を申し込んでいます。ネット経由の場合、購買・閲覧履歴データが蓄積されているため、ロングテール観光と親和性が高くなります。データを解析し、レコメンド(お勧め)することで、潜在的な観光需要の掘り起こしも期待されます。
また、旅行者の移動履歴についても、スマートフォンなどのGPSデータや基地局データなどを分析することで、新たな観光資源を見つけ出せるようになってきています。例えば、(株)ドコモ・インサイトマーケティングが提供する「モバイル空間統計」では、ドコモの携帯電話ネットワークのしくみを使用して、日本人および訪日外国人の人口動態を把握することができます。15年12月に開催されたFIFAクラブワールドカップに来場した訪日外国人の分析結果によると、国・地域別人数や利用した入出国空港別人数、日本での滞在日数別人数、スタジアムの他に訪れた観光スポットなどが見える化されました。例えば、決勝戦まで進んだアルゼンチン本国からの12月の入国者数(前月の10倍)のうち78%が横浜国際総合競技場へ来訪したことがわかります。また、横浜国際総合競技場に来訪した訪日外国人のうち17%は観戦の前後に京都を訪れていること、また、鎌倉や奈良などに足を伸ばす外国人も観察されています。
これにSNS、FinTechなどの決済データを組み合わせれば、ヒト・モノ・情報・カネの面からエビデンスベースの観光対策を立てることができるようになってきています。
こうした中、ロングテールに対応したビッグデータ分析については、データアナリスト不足のため人海戦術には限界があり、人工知能による機械学習などが必要になってきています。また、マーケティング業界では、消費者インサイトへの接近のため、パーソナル人工知能(消費者の人格を人工知能でコピーすること)などの活用も始まっています。
今後は、ビッグデータや人工知能を活用することで、これまでのマスツーリズムにはなかった、新たなツーリズム「新文脈ツーリズム」(<図2>参照)が広がり、ロングテール需要への対応とリピーターの獲得に威力を発揮することになるでしょう。

図2 新文脈ツーリズムによる回遊

Ⅳ 旅まえ・旅なか・旅あとにおける顧客経験

訪日観光プロモーションの理想的な姿について、カスタマージャーニーの考えに沿って整理すると、旅まえ、旅なか、旅あとの各フェーズにおいて、顧客との多様な接点を経て訪日観光が選択され、顧客が訪日観光に満足し、訪日観光の良さを知人などと共有、再訪意向を高めることということができます(<図3>参照)。

図3 訪日観光プロモーションに関するカスタマージャーニー・マップ

このうち、旅まえについてみると、ホテル・旅館など(ホスト)とツーリスト(ゲスト)を媒介するのは、これまでは旅行代理店が情報を独占していましたが、ICTの進展やSNSの普及により、人々は直接、宿泊や交通機関について情報収集し、予約ができるようになりました。今後は、Webインターフェースの向上などによって、きめ細かな情報へのアクセスが改善されることが必要です。
また、旅なかにおいても、観光庁「外国人旅行者に対するアンケート調査結果」によれば、観光情報、公共交通経路、飲食店・宿泊情報などが必要とされており、施設などが決定した場合でも、ヒューマン接点のほか、IoTやバーチャルな接点を介して、多様な情報のやりとりが必要となります。外貨両替やクレジットカードなどの決済の面でも、改善すべき点が多くあります。
さらに、旅あとについては、近年のマーケティングで重視されている、「共有(Share)によるブランド形成効果」を高めるための工夫が大切です。
 

Ⅴ 顧客経験を強化するための多様なテクノロジーとおもてなしプラットホーム

以上のように、カスタマージャーニーの各フェーズで対処されるべき課題は多くありますが、裏を返せば、ICTなどを活用したサービスを開発することで、顧客経験を強化することができるといえます。<表1>は、今後考えられる新サービスをまとめたものです。

表1 カスタマージャーニーの各フェーズの課題に対応したICT活用新サービス

昨年3月、新日本有限責任監査法人などの主催による成長分野別創造型ワークショップのうち、筆者は「2020年の観光」に関するセッションを企画しました。旅行ガイド電子書籍大手、携帯電話キャリア、ハワイ観光向け電話コンシェルジュサービス会社、在タイ訪日送客エージェントのほか、日本全国Wi-Fi展開、指輪型ウェアラブルデバイスによる日本全国回遊、チケット2次流通市場拡大等をめざすベンチャーなど、多彩な顔ぶれが参加して多様なビジネスチャンスに関する情報交換が実現し、その後も企業間での協働が進んでいます。
今後、新たなアイデアが観光の世界に持ち込まれるとともに、多様なサービスが全国共通のプラットホームの上で連携し、旅まえ、旅なか、旅あとのカスタマージャーニーに沿ってシームレスに提供されることを期待したいと思います。例えば、指輪型ウェアラブルデバイスであらゆる決済が可能になれば、旅行者にとって新しく、便利な体験が生まれるでしょう。また、既存の枠にとらわれないシームレスな体験を提供することで顧客満足度が高まり、リピーターが増えるという好循環が生まれると思われます。
 

Ⅵ 観光のまなざしに沿った成長戦略を

英国の社会学者ジョン・アーリは、『観光のまなざし-現在社会におけるレジャーと旅行』(1989)において、冒頭にミシェル・フーコーの「臨床医学は、まなざしの実践と決定についての学問を整理しようとしたおそらく最初のものなのだろう」との言葉を引き、日常生活を短期間離れる「観光」への臨床的接近を試みました。これは、マーケティングの世界で注目を浴びている「消費者インサイト」への接近に通じるものです。
新しいビジネスチャンスを発掘・創出するために、20世紀は「消費者の分析」に主眼が置かれましたが、21世紀は「消費者の理解」こそが重要になっているという点は、業界を問わず共通しています。
これを踏まえ、旅行者のまなざしや旅行者インサイトに沿って、今後の観光とICT等テクノロジーの関係を考えるとすれば、次の両面でのアプローチが必要といえます。

①ロングテールに対応したビッグデータ分析に基づく新文脈ツーリズムの開発

②顧客経験を強化するテクノロジーとそれを横断的に統合するおもてなしプラットホームの構築

日本政府の成長戦略「日本再興戦略2016」の「官民戦略プロジェクト10」にも、観光立国対策が取り上げられました。新規参入事業者も含む旅行・観光産業によって新しいアイデアが試されるとともに、旅行者のカスタマージャーニーに沿って協働することで、成長が確かなものとなるよう期待します。
(文中敬称略)
 

※顧客がどのように商品やサービスとの接点をもって購入に至るのかというプロセスを、旅に例えた言葉


「情報センサー2016年8月・9月合併号 EY Institute」をダウンロード


情報センサー
2016年8月・9月合併号
 

※ 情報センサーはEY新日本有限責任監査法人が毎月発行している社外報です。