連載「TISFDと日本企業」 第3回 TISFDが照らす「人 × 企業価値」の新時代―― 持続的成長ストーリーをいかに競争戦略につなげるか

連載「TISFDと日本企業」

第3回 TISFDが照らす「人 × 企業価値」の新時代―― 持続的成長ストーリーをいかに競争戦略につなげるか

「なぜ今TISFDなのか、企業はどう向き合えばいいのか」

企業にとって「人」は、価値創造の源泉であり、成長戦略の軸として捉え直すことが求められています。
本記事では、2025年10月に公表されたTISFDの“Conceptual Foundation”をもとに、人的・社会資本をどのように経営戦略と企業の将来価値につなげていくべきか、その実装に向けた視点を整理します。

要点

  • TISFDはシステム思考を促す統合フレームワーク
    TISFDは、人・社会・自然の相互依存を統合的に捉え、“State of People(人々の状態)”を軸に、社会的不平等の是正に向けた国際的な枠組みである。
  • 不平等は「システムレベルの経営リスク」
    社会的不平等は、気候・環境と同様に企業価値や市場安定性に直結する構造課題。企業は社会の健全性から恩恵を受ける一方、その毀損は中長期的な経営リスクとなる。
  • IDRO分析は価値創造の実装ツール
    影響・依存・リスク・機会を体系的に整理することで、自社らしい持続的成長ストーリーを構成し、人的・社会資本課題を成長戦略へと転換する。

1. TISFDが示す新しい「人」の価値 

本連載では、第1回でTISFDの狙いや企業にとっての意義、第2回では「人権とウェルビーイング」を取り上げてきました。

第3回となる今回は、2025年10月に公表された“Conceptual Foundations”を中心に、人的・社会関係資本をどのように企業価値と結び付けていくのかについて解説していきます。本稿で取り上げる“Conceptual Foundations”とは、TISFDにおける思想的・理論的な基盤を整理した文書であり、今後の開示フレームワークや指標開発の前提となる重要資料です。

本稿執筆時点で、TISFDは現在進行形の取り組みであり、上の最新文書では、次の3点が明確化されました。

  1. TISFDの中核概念は “State of People”(人々の状態)である
  2. 構造的不平等は、金融市場全体を揺るがす“システムレベルのリスク”である
  3. 人・気候・自然を相互依存的なシステムとして捉えるべきである

TISFDは、ESGの“S”が意味する「社会」という言葉を使わず、「人」の定義を限りなく広く捉えているのが特徴的です。これは、企業の従業員だけでなく、サプライチェーン(アップストリーム)、さらに消費者や地域住民など広く企業活動と依存関係にあるステークホルダー(ダウンストリーム)にまで広げた“People-in-Scope”(企業活動と関係する人々を幅広く含む)が、タスクフォースの根本思想にあるためです。

企業にとって重要な転換点となり得るのは、これまで捉えどころのなかった社会課題が、依存関係を起点に「システムレベルのリスク」と再定義されたことにより、狭義の人的資本経営から、より広義の人的・社会関係資本経営に向けた対応が迫られる流れが出てきたことです。あらゆる企業活動が恩恵を被り、また毀損すればリスクとなり得る「人的・社会関係資本」というものについて、これが何を意味するのかを把握し、自社にとっての脅威や機会、そしてとるべき対策を、今から検討していく必要があります。

本稿では、TISFDが提示する構造を単なるコンプライアンス対応ではなく、企業価値を差別化する戦略フレームとして捉え直し、IDRO(影響・依存・リスク・機会)分析を軸に整理します。

2. State of People:「人々の状態」という統一概念

前述の通り、TISFDの中核を成すのは 「State of People(人々の状態)」 という考え方であり、タスクフォースは、社会領域を次のように説明しています(Conceptual Foundations, p.13–18)。

  • 人権(Human Rights):最低限守られるべき基準
  • ウェルビーイング(Wellbeing):生活の質として現れるアウトカム
  • 人的・社会関係資本(Human & Social Capital):時間とともに蓄積されるストック

図1 人々の状態は、ウェルビーイング、人権の実現、ならびに人的・社会関係資本を反映し、不平等は人々の間の格差を示す

図1 人々の状態は、ウェルビーイング、人権の実現、ならびに人的・社会関係資本を反映し、不平等は人々の間の格差を示す
Conceptual Foundations, p.12 Figure 3 –The state of people reflects people’s well-being, realization of human rights, and human and social capital, while inequalities reflect disparities between peopleよりEY作成

人権とウェルビーイングについては、第2回で解説されているため、本稿では、上の3点目に当る“Human & Social Capital(人的・社会関係資本)“に焦点を絞ります。TISFDにおける「人々の状態」は、個々人の幸福度に限らず、社会の状態そのものが企業活動に影響し得るという「依存」を前提に「資本」として捉えます。これにより企業は、価値創造に直結する人的・社会関係資本の蓄積に、当事者として向き合うことになります。

TISFDでは、社会的領域におけるさまざまな課題を認識した上で、あらゆる科学的根拠を集め、エビデンスベースでの因果関係を探る努力を継続しています。Conceptual Foundationsによると、「人々の状態」は 個人レベル(教育・健康・所得など) と コミュニティレベル(信頼・社会ネットワーク・包摂性など) の両面を含む多層構造であり、企業が影響・依存する範囲を立体的に把握するための研究が進められています。

図2 人々の状態の主な構成要素

図2 人々の状態の主な構成要素
Conceptual Foundations, p.14 Figure 4 –Illustrative dimensions of the state of peopleよりEY作成

3. Inequalities:「構造的不平等」はシステムレベルのリスク

「人々の状態」を理解する上で、TISFDが強調するもう一つの焦点が不平等です。この点も第2回で触れた点を割愛しつつ、経営の視点から見ていきます。

不平等には、性別・人種・地域などの「集団間の不平等(水平的不平等)」と、所得や資産の「個人間の不平等(垂直的不平等)」があり、相互にこれらは作用し合います。教育や医療へのアクセス、所得格差は世代を超えて固定化し、人々のウェルビーイングを損ないます。結果として、労働力の質、生産性の悪化、需要縮小や社会不安の拡大へと波及し、市場全体の安定性を脅かす要因となります。(Conceptual Foundations, p.15-16)

つまり不平等は、倫理課題ではなく、企業価値・投資リターン・市場安定に直結する“経済リスク”として扱われるべき領域です。(Conceptual Foundations, p.20–24)

またTISFDは「結果の平等」にも言及しており、構造的な社会的不平等の連鎖を断ち切るために、機会・結果の双方を評価する必要があると説明しています。

例えば、長年、男女雇用機会(機会の平等)を奨励してきたのに、なぜか女性役員が育たない(結果の不平等)場合、それがなぜなのか、この場合の水平的不平等は何に起因しているのか、機会と結果の双方を評価する必要があります。タスクフォースが目指すのは、集団間の不平等と個人間の不平等の是正を通じて、誰もが機会の平等を生かし得る健全な社会を実現することであり、不平等が固定化することで生じ得る、取り返しのつかない社会的分断に警鐘を鳴らしています。

図3 人々の状態を構成する各次元で水平的不平等と垂直的不平等の双方が発生する

図3 人権とウェルビーイングの関係の概念化
Conceptual Foundations, p.16 Figure 6 –Horizontal and vertical inequalities occur across dimensions of the state of peopleよりEY作成

4. Linkages:サイロ的分断思考を超えたシステム思考の重要性 

TISFDは、TCFDとTNFDに続く第三のタスクフォースとして期待されています。人・気候・自然を相互依存するシステムとして体系化している点こそが、これまでになかった視点であり、注目に値します。(Conceptual Foundations, p.31–36)

これは、リスク管理と価値創造の両面で、人・自然・社会の相互作用を統合的に扱う必要があることを意味しており、“Just Transition(公正な移行)”の観点からは、気候・環境対策が脆弱な集団を排除しないことも強調されています。(Conceptual Foundations, p.31–32) 

環境破壊や気候変動は、主に人間の経済活動から生じています。「人々の状態」を劣後させずに、企業が依存する社会課題に総合的に取り組んでいくのは容易ではないかもしれません。ですが、幅広いステークホルダーとの相互関係性を踏まえて戦略を設計していくことが、バリューチェーン全体における影響・依存・リスク・機会の評価精度を高める上で不可欠です。(Conceptual Foundations, p.31)

5. TISFDの開示フレームワーク

従来、社会領域では、人的・社会関係資本・ウェルビーイングといった多層構造を含み、定量化の難しさから国際基準整備が遅れてきました。しかしながらTISFDは、この難しい領域に着手し、2026年に開示フレームワークのベータ版公表を予定しています。その後は、国際基準との整合性を見据えながら、以下の重点項目を開発対象として掲げています。

  • 指標・インディケーターの整理
  • 開示事項の推奨
  • エビデンスの体系化

国際的に一貫したデータが整備されれば、企業は社会的影響を比較可能な形で示せるようになります。その結果、人的・社会関係資本を成長戦略に統合する実務が大きく前進します。

一方、TISFDは、開示や指標に終始するものではなく、人を起点とした広義の人的資本経営を目指し、自社らしい取り組みや経営努力という「ナラティブ」を生むことで真価を発揮するものと言えます。TISFDを経営に生かす具体像として、IDRO分析を用いたケースを検討します。

6. ケーススタディ:企業C社の実践

ここでは、システムインテグレーションおよびクラウドコンサルティングを通じて成長してきた国内の中堅ITサービス企業C社を題材に、TISFDのIDRO分析をどのように経営に取り入れているのかを見ていきます。

ケース

C社の属するITサービス業では、製造業のような設備投資ではなく、人材そのものが企業価値の源泉となります。経営陣は、長期的な価値創造において技術的専門性だけでは十分ではなく、人的・社会関係資本の状態そのものが事業の持続性を左右するという認識を持っていました。

こうした背景からC社は、社員教育の充実やウェルビーイングの向上、地域社会との関係性強化といった従来の取り組みを、個別施策としてではなく、経営戦略の一部として再整理する手法として、TISFDのIDRO分析を導入しました。

ステークホルダー別の棚卸し

C社が最初に着手したのは、主要ステークホルダーごとに、自社の影響(Impact)と依存(Dependency)、それに伴うリスク(Risk)と機会(Opportunity)を整理することでした。

ステークホルダー

主な影響・依存

リスク

機会

従業員

スキル・キャリア形成、働きがい、労働環境、健康ウェルビーイング

長時間労働による燃え尽き、離職による知識流出、モチベーション・生産性低下

キャリア自立・社会貢献の両立、自己成長が企業価値に直結、生産性向上

顧客

サービス利用に伴う作業負荷の変化、業務品質やアクセス条件

顧客満足度の低下、信頼関係(継続受注・紹介)の脆弱化

社会的価値創出を支援、共創型プロジェクト受注・中長期契約

地域社会

デジタル技術へのアクセス、行政サービス利用、地域の社会参加

関係構築の形骸化、信頼やブランド価値の毀損

地域ブランド、公共案件・補助金連携、市場創造

サプライヤー

取引安定性、技術要件の状況、作業環境の変化、業務負荷

下請け構造による労務リスクやコンプライアンスリスク

共創型イノベーション、新規市場の開拓、共同開発の機会

この整理を通じて、従業員や顧客、地域社会、サプライヤーとの関係性が、単なる取引関係ではなく、企業価値の前提条件として相互に結びつい付いている構造が明確になりました。

エンティティレベルとシステムレベルのIDRO分析

次にC社は、TISFDが提唱する考え方に基づき、自社に直接関係するエンティティレベルと、地域や社会全体に波及するシステムレベルの両面からIDROの整理を行いました。

区分

IDRO要素

主な内容

エンティティレベル(企業固有の範囲)

Impact(影響)

社員教育やウェルビーイング支援の不足による、人材の定着率・生産性低下。地域DXや顧客への変革支援について検討が不十分

Dependency(依存)

社員のスキル・モチベーション・チーム協働力といった人的資本への依存が極めて高い。地域・教育機関に依存した採用活動やブランド形成

Risk(リスク)

属人的スキルやプロジェクト依存によるナレッジ流出、中間層の離職・燃え尽きによる組織学習の断絶、社会的期待との乖離が懸念

Opportunity(機会)

人材開発と社会貢献を統合するパーパス経営の確立、人的・社会関係資本を財務価値と結ぶ統合報告やインパクト開示の推進に期待
システムレベル(地域・社会全体)

Impact(影響)

リモートワークによる労働者の孤立感やメンタルヘルス不調、社会的つながりの希薄化進行。高ストレスの常態化、高い傷病・離職率

Dependency(依存)

地域人材供給基盤(大学・専門学校)やリスキリング支援、地域DX推進や社会全体の支援制度が人的資本の維持に不可欠

Risk(リスク)

慢性的な人材不足と離職率の高さによる、業界全体の持続可能性低下。人間らしい働き方を提供できない企業が淘汰されるリスク

Opportunity(機会)

メンタルヘルス支援・柔軟な勤務設計、「ウェルビーイングを支えるIT企業」のブランド形成、行政と協働で地域のデジタル化・雇用の促進

経営判断と新しい成長戦略への取り組み

IDRO分析の結果を踏まえ、C社の経営陣は、「社会課題を自社だけの問題として切り分けない」視点こそが、長期的な競争優位性につながると判断し、以下の方針を明確にしました。

  • 従業員のウェルビーイングとスキル蓄積を経営の優先事項とする
  • 地域社会・教育機関との関係性を中長期視点で強化する
  • 人的・社会関係資本を財務価値と結び付つけた戦略的な情報開示を検討する

また、IDRO分析によって影響・依存関係の構造は可視化された一方で、それらがどの程度、どの経路で企業価値に結びつい付いているのかについては、さらなる検討が必要であることも認識されました。

TISFDの導入段階では、具体的な指標や算定方法が今後整理されていくことを前提としつつ、依存関係が明らかになった領域については、意思決定に生活かせるレベルまで理解を深めていく必要があるとの判断に至っています。こうした背景からC社では、戦略判断の精度を高めるために、企業活動がステークホルダーや社会全体にもたらす影響について、段階的に可視化していくことを検討しています。(関連記事:「社会的インパクトー企業価値との関係と評価」、「ESGと企業価値の定量分析(PBRモデル)」、「社会的インパクト評価の実践方法」)

このような取り組みは、短期的にはコスト増として認識される場合もありますが、中長期的な視点に立てば、人的資本の毀損リスクの低減や事業の継続性の向上、ブランド価値の維持・強化に資する可能性があります。

C社は現在、「State of People」を起点とした価値創造モデルへと、段階的にかじ舵を切りつつあります。

7. おわりに

本稿では、TISFDが示す人的・社会関係資本の捉え方と、それを企業価値の文脈でどう位置づけるかについて整理してきました。

TISFDはまだ始動段階にあり、2027年頃まではルールメイキングが進む黎明期に当たります。社会課題がシステムレベルのリスクとして企業価値や市場の安定に影響するという構造は明らかになりつつありますが、その対応を一社で完結させることは容易ではありません。

しかし、この移行期は同時に、企業にとって自社の価値創造の前提を見直す戦略的な準備期間でもあります。すでに一部の企業では、非財務情報の可視化を通じて、自社がどのような社会との関係性の上に成り立っているのかを再整理する動きが始まっています。

IDRO分析は、自社がどの社会領域に依存し、どのような影響を与えているのかを構造的に捉えるための有効な手法です。人口減少や人材獲得競争、地域との関係性、企業ブランドといったテーマは、今後ますます経営と投資判断の重要な論点となっていくでしょう。

TISFDという新しいレンズを通じて、企業が自らの価値創造ストーリーをどのように再定義し、社会との関係性をどのように構築していくのか。その試行錯誤こそが、次世代のサステナブル経営を形づくっていくと考えられます。

私たちEYは、その検討と実践のプロセスにおいて、皆さまに寄り添う存在でありたいと考えています。


【共同執筆者】

EY新日本有限責任監査法人 CCaSS事業部
大竹 明子

EY APAC & Japanのファイナンスディレクターとしてグローバル事業経営に従事。非財務情報を用いた企業価値の向上および成長戦略を支援。長期的な価値創造を⽬指す。
米国公認会計士(イリノイ州)
GRI/ESRS認定資格者
オックスフォード経営大学院 経営学修士

※所属・役職は記事公開当時のものです。

サマリー 

企業価値の源泉が「人」へと移行するなか中、人的・社会関係資本をいかに戦略資産として捉え直すかが、経営の競争力を左右します。TISFDとIDRO分析は、企業が自社らしい持続的成長ストーリーを描き、社会との関係性を価値創造へとつなげていくための実践的なレンズとなります。


関連記事

連載「TISFDと日本企業」 第2回 TISFD:人権とウェルビーイング―― 企業が守るべき最低基準と広がり

企業の持続的な信頼と成長は、人権尊重とウェルビーイングの実践から始まります。これらを守ることは、単なる義務ではなく、信頼を築き、イノベーションを促し、優秀な人材を引きつけるための強力な戦略です。TISFDは、その戦略を実現するための羅針盤。企業活動の「影響」と「依存」を見える化し、リスクを機会へと転換することで、社会とともに価値を創造し、持続可能な成長を実現できます。今こそ、「人を中心に据える経営」へシフトし、次のステージへ踏み出しましょう。

連載「TISFDと日本企業」 第1回 TISFD対応を「コスト」から「戦略資産」へ再定義するには

TISFDは「社会課題の開示義務」ではありません。むしろ、企業や金融が人へのまなざしを戦略資産に変えるための設計図です。この連載では、次回以降「人権とウェルビーイング」「人的資本と社会関係資本」へと視点を広げながら、TISFDの考え方を実務に落とし込む方法を一緒に探っていきます。もしこの記事を読んで「もう少し詳しくTISFDについて聞いてみたい」と感じていただけたら、それこそがTISFDが生み出した最初の社会的インパクトかもしれません。

社会的インパクト評価はどのように実践すればよいか

投資家や事業会社が社会的インパクト評価を実践するためのステップやポイント、留意点をEY新日本の知見を交えながら概説します。

社会的インパクト―企業価値との関係と評価

企業と投資家を含む全てのステークホルダーは社会的インパクトと企業価値の関係を理解し、適切に評価した上での可視化された情報に基づいた相互理解を深めることが重要です。

    この記事について