EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバルネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。
製薬業界では、創薬から申請、製造、営業・マーケティングまで、幅広い領域でAI活用が広がっています。一方で、製薬企業が扱う臨床試験データや患者データは、人の生命や健康に関わる情報であり、厳格な規制やデータ管理の要件を満たしながら扱う必要があります。では規制を遵守しながらデータとAIモデルを適切に統制し、AIを安全かつ実効的に活用するには、どのようなガバナンス設計が必要なのでしょうか。本稿では、医療・製薬業界とAIリスク、それぞれのプロフェッショナルが、製薬業界におけるAIガバナンスの論点を整理し、実践の方向性を探ります。
要点
松本:製薬市場はグローバル規模で拡大しています。高齢化の進展や寿命の延伸によって慢性疾患が増え、がんや希少疾患など、いまだ十分な治療法が確立されていない領域にも大きなニーズがあります。そうした需要を背景に、医薬品は従来の低分子医薬品や抗体医薬品に加え、遺伝子治療や細胞治療などの新たなモダリティへと多様化・進化しつつあります。
世界市場が拡大を続ける一方で、国内市場は微増にとどまっています。その背景にあるのが薬価をめぐる事情です。日本には国民皆保険制度があり、薬価は基本的に国が一定程度コントロールする仕組みです。そのため、製薬企業が価格を自由に引き上げることはできません。薬価改定や後発品の普及もあり、国内市場では収益面のプレッシャーが強まっています。こうした背景から、製薬企業には生産性向上が求められています。
松本:研究開発の難易度が急激に上がっているからです。新薬開発には膨大な時間と予算がかかりますが、規制当局により承認され、上市できるとは限りません。さらに、上市後も一定期間が過ぎると特許による保護が失われ、後発品の参入で売上が大きく下がることがあります。製薬企業は常に次の新薬を生み出す必要がありますが、研究開発に投ずることができる予算にも制限があります。限られた体制で研究開発や販売活動を続けるには、一人一人の生産性向上がこれまで以上に重要になっています。こうした背景からAI活用による生産性向上が期待されているのです。
ただし、医薬品の研究開発、製造、販売には厳格な規制やガイドラインが設けられています。当然、そこで作成・記録・保管されるデータについても、品質、完全性、トレーサビリティを確保し、後から説明できる状態で管理することが求められます。AIを活用して業務を効率化する場合も、こうした要件を損なうことはできません。ここに、製薬業界におけるAI活用とAIガバナンスの難しさがあります。
川勝:製薬企業以外の企業では「AIを活用していかに生産性を向上するか」が課題になっている企業も多いと思います。一方、製薬企業では、「AIで効率化できるか」だけでなく、「AIを使った業務が規制に適合しているか」「その判断や出力を後から追跡できるか」まで見据えて、AI導入を設計しなければならないのです。
松本:当初は、膨大なデータを扱う研究開発の初期段階、いわゆる「AI創薬」への期待が中心でした。現在では、研究開発の後工程、臨床開発、申請、生産、営業・マーケティング、バックオフィスまで、ほぼ全プロセスに対象が広がっています。
AIは生産性向上だけでなく、人間では気付きにくい新たな視点を得ることも期待されていますが、活用領域が広がるほど「どの業務に」「どのデータを使い」「どの出力を人間が確認するのか」というガバナンスが重要になります。規制対象となる業務とそうでない業務が混在する製薬業界では、業務ごとのリスクを見極め、ガバナンスの強弱を設計する必要があります。
松本:AI活用が期待されている業務の1つが申請業務です。新薬を上市するには、臨床試験で有効性や安全性を確認し、その結果や関連データを申請資料としてまとめ、規制当局に承認を申請する必要があります。これまでの申請業務では、膨大な情報を人間が収集し、書類を作成していました。しかし生成AIの登場によって、要約や文章作成の一部をAIで代替しようという動きが加速しています。
申請文書の作成期間を短縮できれば、患者さんに薬が届くまでの期間も短くできます。一方で、申請業務は規制当局への説明責任と直結します。AIを使って文書を作成する場合、「その出力がどのデータに基づいているのか」「どのプロセスで作成されたのか」「誰が確認したのか」を説明できる状態にしておかなければなりません。したがって、申請業務でAIを活用するには、データとプロセスのガバナンスを前提としたAIガバナンスが不可欠です。
松本:製薬企業には、研究開発、臨床試験、製造、販売など、各プロセスで蓄積された多種多様なデータがあります。ただし、それらのデータがAIによる学習・参照に使える状態になっているとは限りません。データをAI-readyな状態に整備するには、数多くのハードルがあります。
川勝:どの業界にも共通して言えることですが、AIの出力の信頼性は学習・参照データの正確性と一貫性、そして後から「なぜそのような出力になったのか」を追跡できるかに左右されます。
ところが、製薬企業がAIの学習・参照データとして研究データ、臨床試験データ、申請関連データをAI-readyな状態にする場合、製薬業界特有のルールとデータに関する規制を満たす必要があります。守るべきルールを満たしながら、同時にAIの学習・参照や活用に適した形にしなければならない。つまり、相反する要件を同時に満たす必要があるのです。そこに製薬業界のAIガバナンスの難しさがあります。
川勝:分かりやすい例が、臨床試験データの扱いです。新薬の申請文書作成にAIを活用するには、過去の臨床試験や関連文書をAIに学習・参照させる必要があります。しかし、臨床試験文書は、AIの学習・参照に適した形へ自由に加工してよいデータではありません。
臨床試験に関わるルールの1つに、GCP(Good Clinical Practice:医薬品の臨床試験の実施基準)があります。GCPでは臨床試験データの原本を保持し、後から内容が勝手に書き換えられないよう管理することが求められます。一方で、AIの学習・参照データとして使うには、正規化やラベル付けが必要になります。これは広い意味での「データ改変」に当たり得るため、原本性保持とAI学習・参照用の加工という相反する要件が生じます。
この両方を満たすには、原本データを保持するレイヤーと、AI学習・参照用に加工するレイヤーを分けて管理する必要があります。ただし、単に分けるだけでは不十分です。加工データがどの原本に由来し、どのような加工を経てAIモデルの学習・参照データになったのかを追跡できるようにしなければなりません。こうしたトレーサビリティを前提に、データ整備とガバナンスを設計する必要があります。
つまり製薬業界におけるAIガバナンスでは、AIモデルだけを管理すればよいわけではありません。臨床試験データや患者データについて、取得条件、加工方法、利用目的、説明・追跡の方法までを、製薬業界特有の規制や個人情報保護規制と整合させながらガバナンスを設計する必要があります。この統制範囲の広さが、他業種と比べてAIガバナンスが難しい理由の1つです。
川勝:一口に「患者データ」といっても、検査画像から分かる疾患の状態、電子カルテに含まれる診療情報、服薬情報など多様です。いずれも機微性の高い情報であり、しかも製薬企業だけが保有しているとは限りません。検査画像や診療情報は、病院、検査会社、医療機器メーカーなど、さまざまな主体に分散しています。
こうしたデータをAI学習・参照に利用するには、「誰がデータを保有しているのか」「どの目的で取得されたのか」「患者本人の同意はどこまで及ぶのか」を確認する必要があります。多様で大量のデータを使えばAIモデルの性能向上は期待できますが、患者データの場合は、データを集めること自体が容易ではありません。保有主体や取得目的、同意の範囲を踏まえて、利用可能な条件を明確にしておくことが、AIガバナンス上の重要な要件になります。
川勝:患者データの取り扱いには、個人情報保護法や欧州のGDPR(一般データ保護規則)などが深く関わります。特に遺伝子データや病歴は、通常の個人データよりも厳格に扱われます。GDPRでは健康データや遺伝データは特別なカテゴリーの個人データとされ、日本でも病歴などを含む要配慮個人情報については、取得に本人同意が必要とされ、オプトアウトによる第三者提供は認められていません。
また、製薬企業はグローバルに事業を展開しているため、国や地域をまたいだデータ利用も論点になります。AIモデルの品質を高めるには、複数地域のデータを統合して学習・参照させたい場合があります。しかし、越境移転や目的外利用への対応が不十分だと、AIに使えるデータの範囲が制限され、モデルの品質やパフォーマンスにも影響します。
さらに匿名化・仮名化にも限界があります。特に希少疾患では症例数が少なく、名前を消しても国や症例情報から個人が特定される可能性があります。患者データをAIに活用する場合は、取得経路、同意の範囲、利用目的、移転先、再識別リスクまで含めてガバナンスを設計する必要があります。
川勝:その通りです。重要なのはデータの所在や利用条件を前提にAIモデルを設計することです。例えば、国や地域をまたいで患者データを一カ所に集約できない場合、各国・各組織で個別にモデルを作り、それらを組み合わせるアプローチが考えられます。データそのものは動かさず、各所で作られたモデルを統合することで、全体としてのAIの性能を維持する。これが「フェデレーテッドモデル」と呼ばれる考え方です。
ここで重要なのは、「どのデータを、どこで使い、どのAIモデルを作るのか」を最初に設計しておくことです。AIモデルの作り方そのものをデータの権利関係や個人情報保護、越境移転の制約と一体で設計する必要があります。
川勝:他業種では「小さく始めて効果が出たら、対象部署や業務、データ利用範囲を拡大する」という進め方が一般的です。ただ、ここからは個人的見解ですが、製薬業界でこのアプローチを当てはめると、拡大段階でつまずく可能性があります。理由は、他業界なら当たり前に使えるデータが、製薬業界では使えるとは限らないからです。
限られたデータでAI活用を始め、一定の成果が出たとしても、次に範囲を広げようとした段階で、「必要なデータを取得できない」「法律や規制上、その目的では利用できない」という壁にぶつかることがあります。データの取得に膨大な法的手続きや工数がかかれば、そこで拡大は止まってしまいます。つまり、「小さな成功を積み重ねれば自然に広がる」という前提が、製薬業界では通用しない場合があるのです。
したがって、スモールスタートであっても、最初の段階で「本当にそのデータを使えるのか」「移転や加工に問題はないのか」「将来的にどこまで広げられるのか」を確認しておく必要があります。ある程度の最終形を描いた上で段階的に進めることが、製薬業界では欠かせない発想です。AIモデル設計とデータコンプライアンスを一体で考えるガバナンスが求められる理由も、ここにあります。
松本: AIエージェントなど新しい技術や、大手AI事業者から新しいサービスやモデルが続々と提供される中で、そのような技術やサービス、モデルをいかに活用すべきか、イメージがまだできていない製薬企業も少なくありません。まずは、規制の影響が比較的小さい業務や、データの扱いが整理しやすい業務から始めるという判断も必要です。そのような取り組みを通じて、自社におけるAI活用の最終形を見据えることができるようになると考えます。
川勝:AI-readyなデータの整備には、個人情報保護法、業界規制、AIガバナンス、データマネジメントなど、複数の専門性が関わります。中でもAIガバナンスでは著作権や倫理の論点も出てきます。製薬業界では、そこに機微性の高いデータの取り扱いが重なります。ですから、特定の部門だけに任せるのではなく、部門横断で専門家が連携し、判断できる体制が必要です。
製薬企業には、データサイエンティスト、業界規制に詳しい人材、臨床試験の現場を管理監督する人材、法務の専門家など、それぞれの専門家はそろっています。ただ、その知見をつなぎ、AI活用の可否を横断的に判断する仕組みをどう整えるかは、多くの企業にとってこれからの課題だと思います。
松本:生成AIの登場以降、製薬企業が直面しているのは、こうした判断を担える人材の育成と組織づくりです。社内の専門性をつなぐ体制を整えるとともに、必要に応じて外部の知見も取り入れながら、判断基準やルールを組織に落とし込んでいくことが重要です。そうした仕組みがあって初めて、AI活用を安全かつ実効的に進めるためのガバナンスが機能すると考えています。
川勝:製薬業界のAI活用は、規制とデータコンプライアンスを抜きにして設計することはできません。GXPと原本性保持の問題、患者データの取り扱い、越境移転、同意取得など、検討すべき論点は多岐にわたります。AIの知見だけでも、製薬規制の知見だけでも十分ではありません。両者を1つのテーブルに載せ、データ、規制、業務プロセス、AIモデルを一体で設計することが支援の前提になります。
EYの強みは、AIガバナンスやデータマネジメントの専門性と、製薬業界・ライフサイエンス領域の知見を組み合わせて支援できる点にあります。製薬企業がAI活用を進めるには、技術を導入するだけでなく、使えるデータの見極めから、承認プロセスやルールの整備までを一貫して設計する必要があります。EYでは、製薬業界に詳しい専門チームと連携しながら、体制づくり、プロセス設計、ルール整備まで含めて支援しています。
松本:製薬企業にとって、AI活用は生産性向上や新たな知見の獲得につながる大きな機会です。一方で、規制やデータコンプライアンスへの対応を後回しにすると、本格展開の段階で止まってしまう可能性があります。だからこそ、最初から規制対応とAI活用を切り離さずに進めることが重要です。
EYには海外の製薬企業における先行事例や、各国・地域の規制対応に関する知見があります。こうしたグローバルな知見を、日本の製薬企業の業務や規制環境に合わせて活用し、安全かつ実効的なAIガバナンス構築を支援していきたいと考えています。
製薬業界でAI活用が広がる一方、臨床試験データや患者データの取り扱いには厳格な規制対応が不可欠です。本稿では、データ設計とコンプライアンスを一体化したAIガバナンスの要点を整理します。
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