EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバルネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。
本記事では2026年3月10日に開催されたセミナー「企業における産業スパイ対策~日本企業においても実践可能な具体例~」を基に、産業スパイリスクを低減するための人事制度や法的見解を解説します。
要点
近年、産業スパイによる技術流出リスクの高まりを背景に、企業内部における人材リスク管理の重要性が高まっています。特に、機密情報へアクセスする人材の採用や配置の段階で、いかにリスクを把握・管理するかは、日本企業にとって新たな課題となっています。
本セッションでは、経済安全保障に詳しいEYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 ストラテジック インパクト シニアマネージャー 泙野 将太朗に加え、法律の専門家であるEY弁護士法人 アソシエートパートナー 久保田 淳哉と、人事関連に強いEYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 ピープル・コンサルティング/インテリジェンスユニット シニアマネージャー 吉田 瑞咲の3名が登壇し、産業スパイリスク低減に向けた人事の取り組み、バックグラウンドチェックの実務、そして労働法上の留意点について解説しました。
独立行政法人 情報処理推進機構の調査によると、情報漏えい事象を把握している企業の割合は、2020年の5.2%から2024年には35.5%へと大きく増加しています2。
背景には事案そのものの増加に加え、企業側のリスク意識向上があります。また、情報漏えいはサイバー攻撃のような外的要因だけでなく、従業員や元従業員といった内部関係者によって引き起こされる、産業スパイという内的要因のケースも少なくありません。
「事故による漏えいは仕組みで一定程度防ぐことができますが、産業スパイによる悪意ある情報流出は、“人に紐づくリスク”として管理していく必要があります。今後は、このようなリスクを人事部門がどのように把握し、管理するかが重要な課題になります」(吉田)
人事の観点から機密情報へのアクセス権を新たに付与または拡大する主なタイミングとしては、以下の4つが考えられます。
日本企業では役員登用時のチェックは比較的厳格に行われている一方、その他の段階では十分な確認が行われていない場合も多く、今後取り組むべき領域であると指摘しました。
「近年はこうした背景から、産業スパイを含めた“人に紐づくリスク”への関心が高まり、採用段階でバックグラウンドチェックを導入する企業も増えつつあります。人事実務上、内定後に重大なリスクが発覚しても契約解除が難しいため、内定前の実施が望ましいとされています」(吉田)
一方で、採用候補者の国籍や海外との関係性をどのように評価するかは、実務上難しい課題です。外国籍人材の採用では在留資格や就労資格の確認が必要である一方、国籍を理由とした差別的取り扱いは法律で禁じられています。
この点について、吉田は「カントリーリスクの評価と差別的対応の回避という二つの課題におけるバランスの取り方が、今後の重要な論点になる」と指摘しました。
実際に、研究機関などでは外国籍研究者による技術情報の流出が問題となった事例も存在します。たとえば、国立研究開発法人 産業技術総合研究所では中国籍の研究者が日本の研究機関に在籍しながら、技術情報を中国企業に提供したとして問題になりました。3
こうした産業スパイリスクの対応策として、人事の観点から大きく二つの取り組みが考えられます。一つは、国家レベルの重要情報を対象としたセキュリティクリアランス制度の活用。もう一つは、法的な原則を踏まえた企業独自のリスク対策です。その手段の一つとしてOSINT(Open Source Intelligence)の活用も挙げられます。
続いて久保田は、企業が産業スパイ対策を進める際に直面する労働法上の論点について解説しました。実際に企業から「対応が差別に当たるのではないか」「憲法や労働法に触れないか」といった相談が寄せられており、今回は3つの論点を取り上げました。
日本では企業に採用の自由が認められており、不採用の理由を応募者に説明する法的義務は原則としてありません。
しかし久保田は「『説明義務がないこと』と『理由を整理しておく必要がないこと』は別の問題だ」と指摘します。つまり、不採用による訴訟や行政調査に発展した場合に備えて、企業は採用判断の合理性や適法性を説明できる状態にしておく必要があるということです。採用判断の基準やプロセスを整理し、記録として残しておくことが重要です。
労働基準法3条では国籍などを理由とする差別的取り扱いが禁止されていますが、最高裁判例では「この規定は雇用後の労働条件に関する差別を対象とするものであり、採用そのものを直接制約する規定ではない」と示されています。
しかしながら、国籍を理由とする不採用が民法上の不法行為に当たる可能性を指摘する学説もあり、訴訟やSNSでの批判などのレピュテーションリスクも無視できません。そのため、経済安全保障の観点から採用判断を行う場合でも、国籍そのものではなく、業務上の具体的なリスクに基づいて判断する必要があります。
採用後に経済安全保障上のリスクが生じた場合の配置転換は、“命令権の有無”と“権利濫用の有無”の二段階で判断されます。
2024年の法改正により、採用時点での労働条件通知書において、就業場所や業務内容の変更範囲の明示が求められるようになりました。さらに同年の最高裁判決では、職種や業務内容を限定する合意がある場合、それに反する配置転換を一方的に命じることはできないと示されています。
「このような状況を踏まえ、経済安全保障上のリスクが想定される業務については、採用時点での契約設計から、配置転換の可能性を考慮しておく必要があります」(久保田)
労働契約法では、就業規則よりも労働者に不利な個別合意は無効となります。契約内容と就業規則の整合性を確認しながら、制度を設計することが求められます。
ディスカッションパートでは、バックグラウンドチェックをめぐる実務上の課題3点について議論が交わされました。
1. バックグラウンドチェックを実施する際の本人同意の取得方法
法的観点からは、企業には採用判断に関する一定の調査への自由が認められているものの、職業安定法や個人情報保護法に留意する必要があります。人種や思想などの機微情報の収集は原則禁止されており、要配慮個人情報の取得には本人同意が必要です。
また、公開情報を用いた調査についても、本人申告を先行させ、調査プロセスの透明性を確保するなど、慎重な運用が求められます。
人事実務の観点から、吉田は「同意取得の方法や調査範囲をどこまで具体化するかが課題になる」と指摘します。求人票や採用ページにバックグラウンドチェックの可能性を記載し、応募をもって同意とみなす形で運用する企業も少なくありませんが、「職務内容ごとに収集すべき情報を細かく定義し、人事部門が運用することは、大きな負担になる可能性があります」(吉田)。
泙野は「すべての候補者ではなく、先端技術を扱う部門や防衛関連事業、政府案件に関わる部門など、経済安全保障上リスクの高い業務の候補者に対象を絞って運用することが現実的ではないか」との見方を示しました。
2. 派遣労働者のリスク管理
派遣労働では採用の決定権が派遣元企業にあり、派遣先が個別の人物を指定することは労働者派遣法上制限されています。そのため、バックグラウンドチェックだけに依存するのではなく、機密情報を扱う業務を制限するなど、情報管理の仕組み自体でリスクを低減することが必要であると認識を共にしました。
3. 業務プロセスや組織を分離する「デカップリング」
多くの企業では、グローバルに人材を配置しながらタレントマネジメントを行っていますが、デカップリングが進むと人材の流動性や育成機会が制約される可能性があります。組織を分離したとしても、上位のマネジメント層は共通するため、完全に人材の行き来を遮断することは現実的ではありません。そのため、国籍などの属性ではなく、個々の関係性やリスクを見極めながら、人材配置を設計していくことが重要であるとまとめました。
続くセッションでは、WireScreenの研修チームリーダーPete James氏が、OSINTプラットフォーム「WireScreen」の概要、人物と中国企業の関係性を分析する方法などを紹介しました。デモでは3つのケーススタディを通じて、人物ネットワークを起点とした調査手法が示されました。
WireScreenは、中国企業に特化したコーポレート・インテリジェンスプラットフォームです。中国国内の公開情報を収集・統合し、企業間の所有関係や経営陣、投資関係などを統合・可視化することで、中国企業ネットワークの構造を把握できるよう設計されています。
現在、WireScreenでは、約2,000万以上の企業情報と、経営幹部や投資家など約4,000万件以上の人物データを提供しています。企業や人物の各プロフィールには、制裁対象や強制労働リスク、軍事関連活動などを示すフラグが設定されており、重要なリスク情報を迅速に把握することが可能です。
WireScreenの特徴は、人物情報を起点に企業ネットワークを分析できる点にあります。企業プロフィールから役員や投資家の情報を確認できるだけでなく、人物プロフィールから、その人物が関与する企業や研究機関、投資先などを横断的に把握することが可能です。
さらに、ネットワークグラフ機能を用いることで、人物や企業を介したつながりを視覚的に展開し、複雑な関係性を短時間で理解することが可能です。
デモでは、人物と企業の関係性に焦点を当てた3つのケーススタディが紹介されました。
最初の事例として、中国の高高度気球プログラムに関わる人物と企業の関係性が紹介されました。航空技術の専門家と投資家が関与するWireScreen上の企業ネットワークをたどり、人物プロフィールから出資や役職の関係を追跡したところ、疑惑の人物と複数企業とで関連性が確認でき、事件後に制裁対象となった企業と関係を持つ企業までもが明らかになりました。
二つ目の事例では、中国のサーバー企業Nettrixと、制裁対象企業Sugonの関係が取り上げられました。報道では、Sugonの元幹部が設立した企業を介して、米国の輸出規制を迂回し先端半導体チップを入手していた可能性が指摘されています。
WireScreenでは、取締役などの人物プロフィール上に関係企業のリスクフラグが引き継がれるため、複数のリスク企業と関係する人物を容易に特定することが可能です。また「Pathfinder」機能により、2社間の関係性を自動的に可視化することもできます。
「企業同士の関係性を一つずつ手作業で調べる必要がなく、短時間で中国企業・人物間のネットワーク構造を把握できます」(James氏)
最後に、中国の国家研究機関に関わる人物を起点に、中国国内の民間企業や投資組合との関係を分析するケースが紹介されました。
WireScreenのネットワークグラフ機能を展開し、研究機関と企業の間に存在する多様なつながりを確認できます。今回の事例では、軍事関連研究に関わる研究所の責任者が、投資組合や企業を通じて別のビジネス活動にも関与していたことが確認されました。
James氏は「人物プロフィールを起点に過去の役職や出資関係を追跡することで、表面からは見えにくい企業間の関係性やリスクを把握できる点がWireScreenの重要な価値です」と述べ、OSINT活用の有効性を強調しました。
米国の投資審査機関も活用している経済安全保障リスク評価ツールであるOSINT(Open Source Intelligence)プラットフォームの無料トライアルについて、現在無料相談を受け付け中です。
2025年9月末に米国の商務省が導入し、来年発動予定である、輸出規制対象者の範囲を大幅に拡大する「50%ルール」において、日本企業のリスク低減のために活用できるサービスにもなっております。
発動開始前より対策しておくことで、発動時にスムーズに対応することができるため、現段階からの取り組みが重要となります。
ご興味がある方はぜひお気軽にご相談ください。
経済安全保障の観点からの産業スパイ対策が企業経営に組み込まれる中で、人事部門や法的観点からのリスク対策は必須になりつつあります。採用や配置の判断は単なる人材確保ではなく、企業リスクをも左右する重要な意思決定にもなりえます。産業スパイ対策とリスク管理の設計が、今後の企業競争力を左右するでしょう。
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ニュースリリース
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EYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社(東京都千代田区、代表取締役社長:近藤 聡)は、7月1日より経済安全保障に関連する政策情報とOSINTプラットフォームを活用して、企業や政府などクライアントの意思決定を支援するコンサルティングサービスの提供を本格的に開始します。
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