Crossing Insights 第5回  NEC 今岡仁氏に聞く「顔認証技術とデジタルエシックス」の最前線とは?

Crossing Insights 第5回

NEC 今岡仁氏に聞く「顔認証技術とデジタルエシックス」の最前線とは?


本対談シリーズは、先端テクノロジーの実務家との対話を通じて、テクノロジーと社会の在り方について考えながら、企業を取り巻く現状課題を立体的に捉え、未来への羅針盤となるアイディアを探索します。

第5回のゲストは、世界トップの精度を誇る顔認証技術の第一人者、NECフェロー・今岡仁氏です。空港、国際会議、商業施設などでも身近になりつつある顔認証。その開発の舞台裏とデジタルエシックスの視点をひもとき、イノベーション創出のヒントを探ります。


要点

  • 世界最高峰の精度を持つ顔認証技術の開発は、常識を疑う逆張りの発想と「アルゴリズム×データ×コンピューティング」三位一体の研究戦略が成功要因。
  • センシティブな情報を扱う認証技術の社会実装には、デジタルエシックス(倫理)に取り組み、透明性・説明責任・公平性を担保することが不可欠。
  • イノベーションの創出には、失敗を重ねてブレークスルーを生み出せる環境、分野横断的なネットワーク、そして研究者自身の「戦略を描く力」や「直線的」な研究姿勢が重要。


はじめに

空港の入国審査や搭乗手続きで「顔」認証システムが本人確認を行う、あるいは大規模イベント会場入口で大勢の人々が次々と通過し自動識別される――従来であれば一人ずつ立ち止まり、係員の目視や身分証明書類の確認に時間をかけていた場所で、顔認証システムが人や紙情報に代わり、確実かつ迅速にその役割を果たし始めています。

先人たちの技術開発の積み重ねが実を結び、今やウォークスルー型の顔認証技術が、混雑した環境下でも正確に本人を識別し、マスクや眼鏡といった装着物があっても高い精度による認証が可能です。一方で、こうした先端技術の普及が進むほど、プライバシーを保護し、悪用・乱用を防ぐ「守る」側の対策も必要になります。

顔認証システムの開発・運用には、デジタルエシックス(倫理)の観点から、透明性や説明責任が求められます。技術の進化とデジタルエシックス、そのバランスをどのように取るべきか。そして、日本初のイノベーションをもっと盛り上げていくためには、どのような視点を持ち、どう行動するべきか。EYストラテジー・アンド・コンサルティング外部顧問の椎名茂氏が、研究現場の最前線に立ち続けてきた今岡仁氏に、顔認証技術の開発と社会実装の転換点、そしてイノベーションを起こすための処方箋について伺います。



第1章:研究者の原点――「好き」が導いたキャリアの軌跡

まず、今岡さんの研究者としての最初の原体験はどこにあったのでしょうか?

研究の原点は、子どもの頃に夢中で取り組んでいた数学やパズルの世界でした。問題を解いて答えを導き出し、深く考える時間が一番楽しかったのです。このパズルを解く少年期の体験が、後々の顔認証技術の壁を突破する上で役立ちました。

大学では、応用物理を専攻しながら統計力学に没頭し、大学院では理論物理の道に進んで数式に向き合いました。当時は、レポート用紙を何百枚も使って1つの式を導き出して解き明かすことに集中し、コンピューターに向かってシミュレーションに取り組み、純粋に「解きたい」、「知りたい」、「解明したい」という思いに突き動かされていました。学生時代は、大好きな山登りと、物理、そしてコンピューターシミュレーションに明け暮れていました。

そうした興味や探求心が、認証技術の研究につながるイメージは最初からあったのですか?

実は当初、認証技術開発の当事者になるとは思っていませんでした。入社後の配属先は基礎研究所。それぞれの専門分野で「レジェンド」的な存在の先輩研究者たちが何人も在籍していました。そこで脳研究グループの脳視覚情報処理を扱う先端研究に携わりました。脳の仕組みや計算原理の根本を理解する経験は、後に画像認識に携わる際の重要な基礎になりました。

転機となったのは、当時あった「交差実習1」の期間中、マルチメディア研究所に所属し、顔認証の共同研究に取り組んだことです。一度、脳研究グループへ戻った後、正式にマルチメディア研究所へ異動になりました。そこから試練の日々の始まりです。

未経験だった領域への研究の世界に入れたのは、原点にある「純粋な好奇心」が支えていたのだと思います。今振り返っても、その頃の「面白いと思う探求心」や「抽象的な構造を読み解く力」が、未知の分野に立ち向かう土台となりました。

NECフェロー 今岡 仁 氏
NECフェロー 今岡 仁 氏
1. 他部署で3カ月間、若手社員が実習をする社内プログラム


第2章:世界一の顔認証技術開発の舞台裏――逆張り発想からブレークスルーへ

もともとのご専門ではない認証技術の研究開発へ、本格的に進まれたわけですね。

そうですね。異動を告げられたときは、驚きしかありませんでした。脳科学寄りの基礎研究を続けていた身としては、画像認識の実装寄りの領域はまったく別世界だったからです。そしてチームには、最初は予算も人材もそろわない逆境が待っていました。初期の頃は大した成果が出せず、「本当に自分にできるのだろうか」と日々悩んでいました。毎日が新しい挑戦でした。

世界トップレベルの認証技術を実現できた背景には、どんな突破口があったのでしょうか?

当初は、顔画像同士の類似度を直接比較する従来型の手法を用いていました。これでは経年変化や撮影環境の違いに弱く、実運用レベルの安定性に届かない状況でした。そこで学習理論を学び直し、機械学習を取り入れる方向にかじを切りました。まだディープラーニングが登場する前でしたが、当時トップの学会で出ていたものより数倍性能が高いアルゴリズムを開発していました。そのことが判明すると、自信につながりました。アルゴリズムの良さは、認証精度や処理スピードに直結します。

しかし、失敗を重ねて見えてきたのは、「アルゴリズムだけでは限界がある」という現実です。当時の研究文化として、少ないデータと洗練された手法で競い合うことがままありました。しかし、海外企業が膨大なデータと計算資源を武器に成果を上げていることを目の当たりにし、研究現場の慣習的なスモールデータとは逆張りの「データの量と質」が成功要因となることを確信しました。

そこで、ビッグデータの先駆けとなったわけですね。

はい。データとコンピューティングパワーへ集中投資することを研究戦略の中心に据えました。これは、少人数で戦う必然策でもありました。そこからは、国籍も年齢もバラバラの被験者データを地道に集め、高頻度で学習と評価を回す(今では広く普及しているアジャイルな)体制を整えていきました。古典的な研究者たちから見ると、あのチームはデータ集めに奔走し何をやっているのだろうと、不思議に思えたかもしれません。

また、被験者の過去の顔写真を学習データとして取り込み、顕在化していた経年変化の課題をクリアしていきました。これもまた、被験者からデータを5年、10年と経過するごとに取得していた最初のやり方とは逆のアプローチです。データ整備に数年かけていたのでは、毎年の精度評価に間に合いません。近年容易になった画像生成技術がなかった時代です。とにかく「現実世界の多様性」を技術に取り込む努力を必死に続けました。研究としては泥臭く見えても、そこに飛躍するための糸口がありました。

そしてついに、データがそろい始めた頃から急激に技術の性能が伸び、国際評価の場で桁違いの精度を証明することができたのです。何年も続けて世界最高レベルの精度を顔認証技術で立証していきました2。その結果、米国の主要空港や、インドの国民ID制度など、世界市場での実装につながりました。これはとてもうれしかったですね。

まさに「アルゴリズム×データ×コンピューティング」三位一体の掛け合わせが、先端技術開発の鍵だったわけですね。イノベーションとは、往々にして「研究の常識を疑う」ところから生まれるものかもしれません。

2. NECの顔認証技術は、2009年に米国国立標準技術研究所(NIST)主催のベンチマークに参加して以来、No.1の評価を複数回獲得。出所:NEC「世界トップの技術力」、jpn.nec.com/biometrics/face/history.html(2025年12月19日アクセス)


第3章:社会実装の壁――国際社会が求める「デジタルエシックス」とは

技術的な精度を達成できた後、社会実装のフェーズでどのような課題が見えてきたのでしょうか。

正直なところ、技術を磨き、精度が上がり、国際的な評価も得られるようになると、自然に社会にも広がるだろう、と考えていました。とにかくどの国からも「精度を上げる」よう要請され、ひたすらまい進してきたわけです。ところが実際には、最良の技術と評価されるだけでは、社会は動かないのだと痛感しました。

ここでさらに、「デジタルエシックス」の壁が立ちはだかりました。特に認証技術で、「人の顔」というセンシティブな生体情報を扱うため、倫理性や透明性、公正性が問われます。顔認証には、人種や年齢による性能差、なりすましや監視社会への懸念など、技術だけでは解き切れないテーマが数多く存在します。

企業がデジタルエシックスに向き合うためには、どのような仕組みやスタンスが必要でしょうか。

認証技術の実装において最も難しかったのは、「なぜその精度が出ているのか」、「どのようなケースで弱いのか」を説明し、納得感を得ることでした。人種間の精度差がないか、データはどの範囲まで利用するのか、目的外利用をどう防ぐのか――こうした疑問やボトルネックに対して、一つひとつ丁寧に解明し答えていくことが欠かせません。

私たちの場合、弱点となるケースも公開し、第三者評価である国際機関のテスト結果に判断を委ね、利用目的を限定して透明性を確保するなど、技術者としてできる社会的責任を体系化していきました。結果として、空港や公共領域などの厳しい場面でも信頼を得られるようになりました。

技術的に「できること」だけでなく、「使う」範囲や用途を常に考える姿勢が重要です。同じ顔認証でも、例えば空港の本人確認と、市中監視への全面的な適用では、社会が許容できるラインは大きく異なります。用途ごとにリスクとベネフィットを整理し、どこまで導入するかを社会全体で選択していく必要があるでしょう。最終的には、「技術的には可能だが、あえて選択しない」という判断を下せる文化とガバナンスを持てるかどうかが、エシックスへの本気度を測るポイントになると見ています。


第4章:日本の研究開発をめぐる構造問題――その突破口とは

日本の研究開発の実情をどのように見ていますか?

日本企業には高い技術力がありますが、構造的な制約も大きいと感じています。日本の研究開発力は世界と比べると伸び悩んでいるとよく言われますが、いくつかの理由が考えられます。

まず、この20年ほど日本企業が直面してきた厳しい収益環境の中で、中長期の研究投資が後回しになりがちです。人材面では、大学院や博士課程まで進学しても待遇面でのメリットが少なく、若い人が研究職を選びにくい現状があります。その結果、基礎研究や長期テーマに腰を据えて取り組む人材が減り、技術の厚みが失われるリスクを感じています。

もう1つは「研究が長期戦略とつながりにくい」ことが挙げられます。海外では、研究が10年から20年先の長期事業戦略と結びついています。かつて、日本は長期経営と終身雇用に守られ、もっと自由闊達に研究活動ができていた時代がありました。しかし、近年は短期的な収益に引きずられがちで、基礎研究に十分な投資が回っていない日本企業の傾向が目立ちますよね。

こうした構造的な課題を解決するためには、何か有効な手だてはあるでしょうか?

専門家をリスペクトし、個々の専門性を活かせる環境づくりが必要ではないでしょうか。ビジネスも法律も技術も、それぞれの専門家が対等に議論できる文化が大切です。また、若手が挑戦できる場や、失敗を許容する風土も重要ですね。企業や大学には、若手人材が自分の「好き」を追求できる環境を提供し、社会全体で技術の価値を高めていくことが求められます。

研究者自身には、「戦略を描く力」を育てる必要があると感じています。私自身、顔認証技術で世界首位になった後、海外の研究者から「この先10年間、勝ち続けるための戦略を考えるべき」と言われ、われに返ったことがありました。単に研究を続けるだけでなく、自社の技術がどの市場で、どのような価値を生み、どう持続的に優位性を築くのか――こうした勝ち筋につながるアプローチを考えられる研究者をもっと増やしていくべきではないでしょうか。

EYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 テクノロジーコンサルティング 外部顧問 椎名 茂 氏
EYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 テクノロジーコンサルティング 外部顧問 椎名 茂 氏

第5章:未来への処方箋――「楽しく」研究し、横断型ネットワークがイノベーションを生み出す

これからの研究者には、何が必要とされているでしょうか? 

最も大事なことは、まず楽しく研究することです。研究は困難の連続ですし、自分の仮説が否定されることも何度もあるでしょう。それでも、「この問題を解決したい」、「もっとよくしたい」という気持ちと探求心があれば、研究を続け、前に進むことができます。

そして、「直線的」な考え方や研究姿勢を大切にすることです。周囲の反応や組織の影響を受けて曲線的に動き過ぎると、本来目指すべき方向がブレてしまうでしょう。海外企業やスタートアップの研究者が、実に楽しそうにまっすぐ考え、雑念・雑音を取り払い自分の研究に没頭する姿をじかに見てきました。大きな成果を生む研究は、思い切った挑戦や信念に基づく取り組みから生まれることが多いのではないでしょうか。また、そうできるように周囲もサポートするべきでしょう。

さらに、分野横断的なネットワークを広げることで、新しい発想やイノベーションの創出の助けになると考えています。学会は分野ごとの縦割りで運営されており、異分野の研究者同士が自然につながる場が十分ではありません。さまざまな分野の研究者と議論すると、自身の研究分野を相対化して見ることができ、他分野の考え方から示唆を得て、新しい視点が生まれやすくなります。また、若手研究者にとっては第一線の技術者から直接フィードバックを受けられる貴重な学びの場にもなるでしょう。こうした横のつながりが、技術・倫理・戦略を統合的に考える「エコシステム」の基盤になると考えています。

今岡さんご自身が、分野横断的な研究者のネットワークを構想されていると伺いました。

実はちょうど、企業のフェロー同士の「友技の会」を立ち上げました。企業・業界の枠を超え分野ごとの技術研究のトップランナーが集い、自身の経験や課題を相互に共有し、未来を語れるようなコミュニティづくりを目指しています。互いの存在や立場を尊重し、長年の研究生活に裏打ちされた専門家として各人が持つ技術知見や考え方を傾聴し、学び合う機会を提供するために始動したところです。IT業界だけでなく、消費財メーカー、住宅設備機器メーカーなどからフェローが集まっています。今後ネットワークを拡大し、どんな化学反応を起こせるかワクワクしています。

新たな幅広い研究者同士のつながりから、次世代のイノベーションのヒントになる対話が生まれることでしょう。


※本記事は、一般のビジネスパーソンにもわかりやすく「顔認証技術とデジタルエシックス」を伝えることを目的とした特設対談企画です。

ゲスト:

  • 日本電気株式会社 NECフェロー 博士(工学)
    今岡 仁 氏 

    1997年NEC入社、2019年NECフェロー就任。入社後、脳視覚情報処理の研究開発に従事。2002年に顔認証技術の研究開発を開始。世界70カ国以上での生体認証製品の事業化に貢献するとともに、NIST(米国国立標準技術研究所)の顔認証ベンチマークテストで世界No.1評価を6回獲得。令和4年度科学技術分野の文部科学大臣表彰「科学技術賞(開発部門)」受賞。令和5年春の褒章「紫綬褒章」受章。東北大学特任教授(客員)、筑波大学客員教授。
     

インタビュアー:

  • EYストラテジー・アンド・コンサルティング テクノロジーコンサルティング 外部顧問
    椎名 茂 氏

    慶應義塾大学理工学部を卒業後、日本電気株式会社に入社しAIの研究に従事。プライスウォーターハウスクーパース株式会社代表取締役社長、KPMGコンサルティング株式会社代表取締役副社長を歴任し、2020年よりDigital Entertainment Asset Pte. Ltd. のCEOを務める。本業の傍ら、慶應義塾大学理工学部の訪問教授、日本障害者スキー連盟会長も務める。


サマリー 

顔認証技術の社会実装には、精度向上や国際評価の取得だけでなく、デジタルエシックスに取り組み、透明性・説明責任・公平性を担保することが不可欠です。



Crossing Insights

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