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第7回のゲストは、資生堂みらい開発研究所で長年「たるみ」の研究をリードし、化粧品業界の技術研究成果を競う世界大会で前人未到の4大会連続の受賞歴を持つ江連智暢氏です。同氏の研究者としての原点から、「たるみ研究」が形になるまでの長い試行錯誤、AI・デジタル技術による変革、研究を支える組織文化、そしてAI時代における研究開発の未来について伺いました。
化粧品研究プロフェッショナルの実ストーリーから、未定義領域における新たな価値とイノベーション創出の実践知を読み解きます。
要点
ビジネスの現場では、「何が起きているのか分からない」という状態から出発せざるを得ない場面が、少なからずあります。特に、先端研究や新規事業の開発などでは、解くべき課題そのものが定義されていないケースも多く存在します。
資生堂の江連氏が長年取り組んできた「たるみ研究」もまた、明確な定義が存在しない領域で、そもそも「何が起きているのか」を科学的に捉え直し、社会に役立つ化粧品・スキンケア製品や、美容アプローチを生み出す源泉となった一例です。
具体的には、顔の「たるみ」は誰もが経験し、知っている変化でありながら、その正体は長らく説明がつかないままでした。何となく「加齢によるもの」と感覚的に理解されてはいるものの、どのようなものなのか、なぜ起きるのか――これらを説明する理論や体系が存在しませんでした。
曖昧で普遍的な現象を科学へと変えていくとは、どういうことなのか。そして、そこからどのように新しい価値を生み出せるのか。本対談から、化粧品研究という枠を超え、「イノベーションはどのように生まれるのか」という問いへの示唆を探ります。
最初から理系に進んで研究をしたい、と意識していたわけではありませんでした。「社会に貢献したい」という強い思いはありましたが、理系か文系かを決める際にも、それは思いを実現するための手段を選ぶことで、研究というものを意識してはいませんでした。当時はインターネットもなく、今ほど情報も多くなかったので、社会について学びながら、自分の進む方向を探していこうという感覚でした。
その中で生物学に惹かれたのは、社会を構成する人間そのものを深く理解するための学問に思えたからです。生物学は、人類がどこから来て、どこへ向かって行くのかを探究する学問と言われています。また、医学の基礎となる体のメカニズムの研究や、サルの群れの観察を通して、人間社会の理解につなげる研究など、生命活動のすべてを対象としています。社会に貢献したい、という思いを実現するためには、人と社会と、その未来像を追い求めるこの生物学が、とても魅力的に思えました。
資生堂を選んだ理由も、科学を起点に、文化や価値観を提言することで、社会に貢献している企業だと感じたからです。
私が入社した当時の化粧品は、目尻の小ジワ等、「皮膚の表面」の変化を対象にしていました。ただ、実際に多くの方が悩まれていることは、加齢とともに頬が垂れ下がることや、顔の輪郭が曖昧になること、目の下が膨らむこと等、「顔の形」が大きく変わることです。当時は、そのような変化は、美容整形の領域とされていました。しかし実際の悩み、つまり顔の形の加齢変化に対して、化粧品で何かできないかと考えて、研究を始めました。
「顔の形が加齢で多様に変化する本質的な要因は何か」を突き詰めていくと、「たるみ」という現象に行き着きました。ただ、その時点では「たるみ」とは何かを規定する、科学的な定義も十分にありませんでした。そのため、たるみの研究を始めるというよりも、まず「研究できる状態」を作るところから始める必要がありました。「研究領域そのものを立ち上げる」感覚に近かったかと思います。
本当にそうでした。皮膚科学には長い歴史がありましたが、重篤な疾患を対象にした研究が中心で、「加齢で顔がどう変化するか」はよくわかっていませんでした。そのためまずは、たるみとは何かの定義を作り、評価する方法を作る必要がありました。また、その科学性を証明するためには、科学論文として発表する必要がありますが、たるみを扱う領域もないことから、発表先を開拓することも不可欠でした。今だと、顔の状態を測定する装置まであるのですが。
当時の化粧品の研究では、皮膚の遺伝子を解析する等、科学の最先端の技術が使われていました。そのような研究環境の中で、毎日、顔の写真を眺めていたので、周囲からは「あの人は何をやっているのだろうか?」と思われていたようです。ただ、こうした新しい領域で研究するためには、その基盤となる部分をしっかりと確立しないことには、本質にたどり着けない、そう考えて研究を続けていました。
ご指摘の通りです。最大の課題は、「あるがままの皮膚」を見ることでした。たるんだ皮膚では何が起きているのか、それを見るために、通常行われるように皮膚を解剖してしまうと、本来の状態が崩れてしまいます。つまり、生きた状態のリアルな皮膚の構造が見えなくなってしまいます。そこで、当時ちょうど出始めたAIを活用して膨大な皮膚のデータを解析し、複雑な皮膚の内部構造を超高精細に、立体的に再現したリアルな電子皮膚「デジタル3Dスキン™」をコンピューター上に創り出しました。その結果、コンピューター上でデジタル的に皮膚を解剖することや、数値化すること等が、直感的な操作で簡単にできるようになりました。
このデジタル3Dスキン™を使い、皮膚がどのように老化して、たるみにつながるのか、複数の要因を明らかにすることができました。ただ、たるみをさらに理解するためには、実際に皮膚が重力でたるむ時の「動き」まで見る必要があると考えました。そこで、さらにもう一次元、「動き」まで加えた4次元的な電子皮膚「4Dデジタルスキン™」を開発しました。
この4Dデジタルスキン™を使い、皮膚が重力で変形する際、皮膚のどの部分が重力に抵抗しているのかを追跡しました。その中で見えてきたことが、「立毛筋」という体毛の根元にある小さな筋肉の役割でした。一般的には、鳥肌を立てる筋肉として知られていますが、この立毛筋が重力に抵抗する方向に並び、皮膚の変形を抑えていることがわかってきました。
つまり皮膚の内部には、重力で皮膚がたるまないように支える「抗重力システム」が存在していたわけです。さらに、加齢でこの立毛筋が衰えることで、重力に抵抗することが難しくなり、皮膚がたるむことが明らかになりました。そのため、衰えた立毛筋をどのように活性化するのかを考え、それを美容法やスキンケア技術へと発展させていきました。
資生堂には独特のカルチャーがあるのかもしれません。
化粧品というのは、有効成分だけでは成立しません。例えば乳液やクリームには、有効成分に加えて、塗った時の感触を高める成分や、その製品の世界観を伝える香り、見た目を演出する色材など、多様な成分が入っています。しかし、異なる性質の成分は、そのままでは混ざり合うことはありません。
それぞれ独自の特性を持つ成分をいくつも調和させて、化粧品を生み出してきた企業だからこそ、際立った個性を融合して、新たな価値を生み出す――そんな文化が培われているのではないかと思います。
AIで変わる部分は大きいと思います。例えば、データ解析や情報処理などは、今後さらに加速していくと思います。オートメーション化もかなり進むと思います。一方で、生物を扱う研究では、まだAIだけでは難しい部分があります。生体には非常に大きな個体差がありますし、状態も常に変化しています。そのため、すべてを画一的にAIで処理することは、まだ難しい段階です。
しかし、先に紹介した通り、たるみ研究ではAIをいち早く取り入れて、生物という複雑系を画一的に扱うためのノウハウを蓄積してきました。また膨大なデータも保有しています。そのため、AIの技術革新を活用して、研究を飛躍的に加速することができると考えています。
研究開発のブレークスルーには2つの側面があると思います。1つは、技術革新で一気に進む部分――ここは、AIが大きく加速させると思います。もう1つは、泥臭く試行錯誤を積み重ねる部分です。化粧品の研究開発では、今はこの両者の二極化が進んでいるように思えます。しかし、最終的に「何を問いとして設定するか」、「どこに本質があるのか」を見抜く部分に関しては、人間の果たす役割は大きいのではないかと思います。
最近では、AIだけではなく、さまざまな技術革新により、研究開発は加速しています。そのため、多くの未解明の事実が明らかになっていくと思います。
ただ、化粧品の研究開発は、単なる機能開発ではありません。生老病死と向き合い、「人がどう生きたいか」、「どうありたいか」、その気持ちに寄り添い、出すぎることなく、願いに応えていく活動だと思います。社会は大きく変化しています。価値観の変化もまた、加速しています。だからこそ、化粧品が未来に向かって進むためには、人をより深く理解することが、何よりも重要だと思います。
※本記事は、一般のビジネスパーソンにも分かりやすく「『たるみの研究』から考えるイノベーションの起点」を伝えることを目的とした特設対談企画です。
1990年資生堂に入社し、一貫してスキンケア領域の研究開発に従事。皮膚科学研究を基点に体系的なたるみに関する理論を生み出し、多くの主力製品を開発してきた。化粧品技術の世界大会IFSCC*で前人未到の4大会連続受賞を達成。国内外の専門学会で受賞多数。IFSCCで行った基調講演で「世界で最も有名な化粧品研究者」と称される。神戸大学大学院研究科客員教授(兼任)。
*IFSCC:国際化粧品技術者会連盟(The International Federation of Societies of Cosmetic Chemists)
未定義だった「たるみ」が、観察技術の革新を通じて解明され、美容科学の新領域が切り開かれました。AI時代における「化粧品の科学」の本質は、試行錯誤を重ねながら、人が人を理解し、人が方向性を決める姿を、AIやデジタル技術が支えることにあります。
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