EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバルネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。
要点
2026年3月期から、有価証券報告書における人的資本開示が見直されます。今回の改正で企業に求められるのは、単に人材関連の情報を追加することではなく、経営戦略と人材戦略、さらに給与決定方針や給与水準の変化までを、一貫したストーリーとして説明することです。特に、「企業戦略と関連付けた人材戦略」「従業員給与等の決定方針」「平均年間給与の対前年比増減率」は、新たな開示の中核となります。本稿では、改正のポイントを整理した上で、企業に求められる実務対応の方向性を、図表も交えながら解説します。
2026年3月期から始まる人的資本開示の改正では、企業に対して新たに「企業戦略と関連付けた人材戦略」、「従業員給与等の決定方針」、「平均年間給与の対前年比増減率」の開示が求められます。さらに、これまでの「従業員の状況」は「第1【企業の概況】」から「第4【提出会社の状況】」へ移され、これらの項目とあわせて一体的に開示することが想定されています。人的資本に関する情報が、補足的な情報ではなく、企業の経営実態や価値創造を説明する中核的な情報として扱われるようになる点が、大きな変化といえます。
今回の改正のポイントは、項目が増えることそのものではありません。重要なのは、経営戦略から人材戦略、さらに給与決定方針や給与水準の変化までが、一気通貫でつながっていることを示すことです。例えば、「どのような経営戦略を掲げているのか」「その実現にはどのような人材が必要か」「必要な人材をどう獲得・育成し、活躍につなげるのか」「その人材にどう報いるのか」、そして「その結果が給与の水準や増減率にどう表れているのか」という流れが、1つのストーリーとして説明されていることが求められます。
図1 人的資本開示改正において求められる一体的開示の全体像
今回の改正において、最初の重要論点となるのが、「企業戦略と関連付けた人材戦略」の開示です。人材戦略は単に採用施策や育成施策を並べるものではなく、有価証券報告書に記載する経営方針や経営戦略と結び付けて説明することが求められます。つまり、「この経営戦略を実現するために、なぜこの人材戦略が必要なのか」が自然に読み取れる構成であることが重要です。
この点で参考になるのが、人的資本可視化指針の改訂版で示されている考え方です。そこでは、①経営戦略・ビジネスモデル、②人的資本への依存・影響、③人的資本関連のリスク・機会、④人材戦略、⑤人的資本関連の指標及び目標という5つの要素をつなぐ枠組みが示されています。特徴は、経営戦略と人材戦略の間に、「人的資本への依存・影響」と「人的資本関連のリスク・機会」という2つのステップを置いている点にあります。
例えば、経営戦略の実現に高度専門人材が不可欠であれば、企業はその人材の確保や維持に「依存」していると考えられます。一方で、採用、育成、エンゲージメント向上策などを通じて、企業は人的資本に「影響」を与えます。この相互関係を明らかにすることで、「必要な人材を確保できなかった場合のリスク」と「人的資本への投資が成果につながった場合の機会」を整理しやすくなり、その上で必要な人材戦略や指標・目標へと論理的につなげることができます。
この考え方を用いることで、人材戦略は単なる施策の羅列ではなく、経営戦略の実現可能性や企業価値との関係を踏まえた説明に変わります。投資家の視点から見ても、「なぜこの会社はこの人材戦略を採っているのか」が理解しやすくなり、開示の説得力が高まります。
図2 経営戦略と人材戦略の連動を整理するフレームワーク(人的資本可視化指針改訂版)を踏まえた考え方
出所:内閣官房 金融庁 経済産業省「戦略に焦点をあてた人的資本開示~投資家の期待に応えるための考え方の整理~」 2026年3月https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/nipponseichosenryaku/hizaimu/pdf/2026/shishin_besshi.pdf(2026年3月23日アクセス)を基にEY作成
第2の柱となるのが、従業員給与等の決定方針の開示です。この開示では、基本給・賞与といった給与の構成、給与水準の考え方、決定プロセス、給与体系の設計思想などを、自社の実態に応じて説明することが想定されています。
ここで重要なのは、給与決定方針を単独の制度説明として終わらせないことです。経営戦略の実現に必要な人材があり、そのための人材戦略があるのであれば、給与決定方針はその延長線上に位置付くはずです。例えば、専門人材の確保が重要であれば、それに見合った報酬水準や処遇の考え方が必要になりますし、長期育成を重視する企業であれば、それに沿った評価・報酬制度の設計思想を説明することが求められます。つまり、「どのような人材が必要か」と「その人材にどう報いるか」は、本来一体として語ることが重要です。
この観点から見ると、給与決定方針の開示は、単なる制度開示ではなく、企業がどのような人材に価値を置き、その人材にどのような処遇を通じて期待を示しているのかを説明する機会でもあります。したがって、制度の名称や形式だけでなく、なぜその考え方を採っているのかという背景まで含めて説明することが期待されます。
今回の改正では、従来の「従業員数」「平均年齢」「平均勤続年数」「平均年間給与」に加えて、平均年間給与の対前年比増減率の記載が求められます。この増減率は、給与等の決定方針が実際の平均給与にどのように反映されているかを、時系列で確認するための情報として位置付けられています。単年度の水準だけでは見えにくかった変化の方向性が、より明確になる点が特徴です。
もっとも、この数字は必ずしも給与方針だけで決まるものではありません。例えば、ベースアップや賞与の見直しを行っていても、新卒採用の増加や人員構成の変化によって、平均値が見かけ上低く出ることがあります。逆に、退職や人員の入れ替わりにより、一時的に平均値が上振れすることもあり得ます。そのため、増減率だけを切り取って示すのではなく、必要に応じて補足説明を付け、数字が何を意味しているのかを丁寧に伝えることが大切です。
今回の制度改正は、数字の開示を求める一方で、数字が一人歩きしないように文脈を添えることの重要性も示しています。したがって、給与決定方針の説明と平均給与増減率の説明は、切り離さずにセットで考える必要があります。方針と実績がどうつながっているか、もしずれがあるならなぜそうなっているのかを説明できるようにしておくことが、今後の実務対応では重要になります。
持株会社にとって特に重要なのが、最大人員会社に関する開示です。提出会社が子会社の経営管理を主たる業務とする持株会社である場合、国内連結子会社のうち従業員数が最も多い会社についても、平均年間給与やその対前年比増減率などの開示が求められます。さらに、その最大人員会社の従業員数が国内連結会社全体の過半数を超えない場合には、次に従業員数が多い会社も開示対象となります。
これは、提出会社単体の数字だけでは見えにくかったグループの実態が、より明確になることを意味します。特に、ホールディングス会社と主要事業子会社との間で給与水準や増減率に差がある場合、その差が可視化されるため、投資家その他のステークホルダーから説明を求められる場面もあります。そのため、どの会社が開示対象になるのかを早めに確認することに加え、データの定義や集計プロセスを統一し、必要に応じて格差の背景を合理的に説明できるようにしておくことが重要です。
また、この論点は単なるデータ整備の問題にとどまりません。グループ全体の人材戦略や報酬方針をどう考えているのか、持株会社と事業子会社で役割や処遇の考え方にどのような違いがあるのかを、開示を通じて見直すきっかけにもなります。持株会社にとっては、開示対応とあわせてグループ内の報酬・人材マネジメントの整合性を確認することが、今後ますます重要になると考えられます。
図3 持株会社における平均年間給与等の開示対象範囲の考え方
今回の改正に対応するためには、人事部や開示担当部門だけで原稿を整えるだけでは足りません。経営戦略、人材戦略、給与決定方針、平均給与データを一気通貫でつなげるためには、経営企画、人事、経理、IRなど、複数部門が横断して議論することが欠かせません。自社の経営戦略の実現に必要な人材は何か、その人材をどう確保・育成し、どう報いるのか、さらにその結果がどのようなデータとして現れているのかを、段階的に組織横断で整理し、開示に対応する必要があります。
今回の制度改正は、「自社の人材ストーリーは何か」を問い直す機会でもあります。これまで人事制度や処遇方針、開示データが部門ごとに分断されていた企業にとっては、それらをつなぎ直すこと自体が大きな実務テーマになります。この機会に経営戦略と人材戦略の関係を整理できれば、開示対応にとどまらず、人的資本経営そのものの質を高めることにもつながります。
また、今回の対応は、今後本格化するSSBJ基準対応の基盤にもなります。企業戦略と人的資本を含むサステナビリティ戦略の連動は、今後のサステナビリティ開示においても重要な共通部品であると整理されます。したがって、人的資本開示改正に丁寧に取り組むことは、その先のサステナビリティ開示全体の高度化にもつながるものといえます。
今回の人的資本開示の改正は、単に新しい開示項目が追加されるという話ではありません。企業が、自社の経営戦略と人材戦略、さらに処遇や給与の考え方を、投資家に対してどう一貫して説明するかが問われています。「何を開示するか」だけでなく、どうつなげて語るかが、開示の質を大きく左右することになります。
2026年3月期の開示までの準備期間はすでに限られています。当期対応できること、来期対応すべきこと、またそれ以上に時間がかかる項目についてはどう取り組むのか、開示対応戦略を含め、部門横断で整理することが重要です。今回の制度改正を、単なる他社との横並びで対応する追加開示として受け止めるのではなく、自社の人的資本の考え方を見直し、社内外に伝える好機として活用していくことが期待されます。
EYの気候変動・サステナビリティサービスユニット(CCaSS)では、サステナビリティ開示対応の支援をしています。今後の開示規制動向を見据えた柔軟な対応に向けて、ぜひお気軽にご相談ください。
EY新日本有限責任監査法人 気候変動サステナビリティ(CCaSS)事業部 鶴田 雄介
EY新日本有限責任監査法人 サステナビリティ開示推進室 桐原 尚志
今回の改正は、単なる追加開示への対応にとどまりません。経営と人材を部門横断で結び直し、自社の人材ストーリーを磨き上げ、その先の開示高度化にもつながる重要な機会となります。
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