EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバルネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。
人的資本開示は、対象の拡大とともに「網羅」から「選択と集中」へと転換しています。本記事では米国SECの動向を踏まえ、日本企業にとって企業価値に直結する戦略的マテリアリティの重要性と実践の要点を整理します。
要点
人的資本開示は、いま大きな転換点を迎えています。
開示項目の拡大が進む一方で、「何を開示すべきか」という根本的な問いは、むしろ難しさを増しています。その背景には、資本市場における評価軸の変化があります。米国証券取引委員会(SEC)の気候開示撤回提案は、その象徴的な動きといえます。こうした変化は、国際的な開示フレームワークの進展とも相まって、人的資本の捉え方そのものを拡張しつつあります。
日本国内では、2023年以降、内閣府令の改正により、有価証券報告書等における人的資本開示が義務化され、2025年には、金融庁が上場企業の有価証券報告書において連結グループの企業戦略と関連付けた人材戦略や従業員給与の増減率の記載を義務付けられました。現行の開示は主に自社および連結グループ内の人的資本に焦点が当てられ、企業活動が依拠する、より広範な社会条件(サプライチェーンや地域社会等)まで一貫して捉える枠組みには至っていません。
国際的には、2024年にISSB(国際サステナビリティ基準審議会)による次なる研究プロジェクトのテーマの一つに「人的資本」が選定され¹、翌年には進捗(しんちょく)結果として、人的資本に関して改善された開示が必要とされる投資家ニーズが報告されました。2025年には、TISFD(不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース)が発足し、現時点では、実装ガイダンスは未整備であるものの、既存の欧米開示規制との接続を見据えた実務適用フェーズへ移行しつつあると評価できます(本稿執筆時において、「TISFDベータ版 0.1」²のリリースによる公開コンサルテーションが開始されました)。
現状、ハードローである開示規制が整備されていく一方で、ソフトローとしてのTISFD(現状は任意適用)にみられる広範な人的・社会要素の共通基盤が形成されつつあり、両者の間に以下のような乖離(かいり)が生じていることがうかがえます。具体的には、第一に「時間軸」の差です。規制は過去・現在の説明責任を重視するのに対し、ソフトローは将来価値の創出を志向しています。第二に「範囲(スコープ)」の差です。規制は自社・連結中心であるのに対し、TISFDはバリューチェーン全体を対象とする点で異なります。そして第三に「思想」の差です。規制はコンプライアンスを前提とするのに対し、ソフトローは自律的な実装を求める点で本質的に異なります。
これらは制度設計の前提そのものに由来するものであり、短期的に完全に収束するものではないという意味で、構造的なギャップであるといえるでしょう。
こうしたギャップへの対応の遅れは、資本市場での評価低下という形で顕在化する可能性があります。企業にとってはもはや「対応するか否か」という選択肢とは言い難くなっており、「どの領域で、どの水準まで踏み込み、どのポジションで先行するか」という経営判断そのものが問われています。この判断は、CFO・IR機能を中核としながら、資本市場との対話を前提に経営レベルで行われるべきものです。
近年のグローバル株式市場では、人的資本を含むESG(環境・社会・ガバナンス )要素が投資判断の重要な評価軸として定着する一方、その評価の在り方自体が見直される局面に入っています。特に米国では、ESGを巡る政治・社会的議論の高まりを背景に、その位置付けに再評価の動きが見られます。
しかしながら、投資家の評価軸の本質は揺らいでいません。EYが実施した「機関投資家グローバル調査」³が示す通り、投資家は依然としてESG情報、とりわけその「質」や「信頼性」を一貫して重視しています。さらに、EYとオックスフォード大学の共同研究⁴では、人を中心に据えた変革に取り組む企業は、そうでない企業に比べて変革の成功確率が約2.5倍に高まることが示されており、人的資本が企業価値創出の中核的なドライバーであることが実証されています。こうした動きは、単なる理念としてのESGではなく、企業価値を構成する実質的な要素として、人的資本やガバナンスの質が資本市場において強く意識されていることを明確に示唆しています。
投資家や買い手企業は、目先の財務キャッシュ・フローだけでなく、「その価値を生み出し続ける組織や人材(無形資産)に持続可能性(サステナビリティ)があるか」を冷静に見極めています。こうした無形資産の質は、将来キャッシュ・フローの持続性や成長期待として織り込まれ、結果として企業価値に反映されます。つまり、適切な人的資本開示とは、自社の無形資産を可視化し、それを資本市場における評価(マルチプル)へと転換するための、極めて戦略的な投資といえるのです。
人的資本を中心とした経営の質そのものが企業価値を押し上げる重要なドライバーとなっていることは前段で確認した通りです。その一方で、「どの情報が企業価値に直結するのか」を見極める視点は、資本市場において改めて厳しく問い直されているといえます。
こうした動きは、単なる抽象的な議論にとどまらず、具体的な制度動向として既に顕在化しています。その象徴例が、2026年5月29日にSECが発表した気候変動開示ルールの全面撤回提案(Proposes Rescission)⁵という急進的な動きです(本稿執筆時において、この撤回は「提案」の段階であり、最終化はされていません)。
この地殻変動は、日本国内で一部報道されているような「トランプ政権下における単なる反ESG運動・政治的イデオロギーの対立」という矮小(わいしょう)化された文脈だけで片付けられるものではありません。SECが、今回の撤回提案において展開したロジックは極めてニュートラルであり、かつ本質的なものであるためです。実際に、米国主要報道においても、今回の措置は単なる政治的判断というよりも、規制が「法的権限の範囲を超えている可能性」や「投資家にとっての実質的な情報価値に比して過大なコストを課している」といった論点に基づくものとして整理されています。
SECは撤回の主たる大義名分として以下の2点を挙げています。
過度に一律でグラニュラー(粒度の細かい)な非財務開示の義務化は、企業と株主に対し、合理的な投資リターンに見合わない膨大なコンプライアンス・コストを強いることになります。このSECの姿勢は、「一社がどこまで社会的責任を負うべきか」「短期利益を犠牲にしてまで行う義務的開示は、本当に株主利益にかなうのか」という、世界中の経営者や株主が抱く当然の疑問を代弁したものだといえます。
つまり、グローバル市場(少なくとも米国)での潮流は「ルールに従うことに終始して何でも一律に開示する」という初期フェーズを終え、「その開示は本当に投資家にとって有用(Decision-Useful)か」「企業の長期的なキャッシュ・フロー創出に直結しているか」を厳格に吟味する「市場リアリズム」のフェーズへとシフトしたと考えられます。
この動きは、単なる規制緩和ではなく、「政府による規制」と「市場による規律」の適切なバランスを巡る調整の過程と捉えることができます。すなわち、形式的な一律開示から、企業ごとの実態や戦略に即した開示へと軸足が移りつつあるといえます。
この動きが企業にとっての方向性を明確に示しています。今後の開示・人的資本投資において問われるのは、「何をどこまで開示したか」ではなく、「それが自社の企業価値にどのように結びつくかを説明できているか」という点に収束していくという方向性です。特に日本企業においては、規制対応としての網羅的な開示に注力するあまり、「財務的マテリアリティの観点からの選択と集中」という視点が相対的に弱い傾向が見られます。しかし、グローバル資本市場においては、今後ますます「説明できない開示」は評価されず、むしろコストとして認識されるリスクが高まります。
つまり、日本企業にとっての本質的な課題は、「何を開示するか」という網羅性の追求ではなく、「自社の企業価値創出にとって何が財務的にマテリアルであるかを見極め、それを戦略的に開示できているか」という点へと移行しつつあります。
こうした市場リアリズムの高まりの中で、TISFDが提示する開示の方向性にも改めて目を向ける必要があります。TISFDの本質は、単に人的・社会的側面の取組みを網羅的に報告することではなく、それらが企業の戦略および価値創造プロセスとどのように結びついているかを示す点にあります。こうした戦略的意義が強調される一方で、「財務的マテリアリティ」のリアルな視点を持ってしても、これから本格化する人的資本・社会領域の開示には、実務的に極めて高い壁が存在します。先述の「TISFDベータ版 0.1」について、もう少し掘り下げてみましょう。
まず、TISFDが対象とする「人(People)」の定義は、従来の「自社の従業員」の枠組みをはるかに超え、サプライチェーン(上流)はもちろん、ダウンストリーム(下流・製品の受け手や地域社会)にまで広がっています。ここには、企業が直面する3つの実務上のジレンマが考えられます。
課題①:バリューチェーンの肥大化(ダウンストリーム開示の困難さ)
自社の直接雇用の人材だけでなく、製品が流通した後のダウンストリームのステークホルダーに及ぼす影響まで含めた「開示の範囲(スコープ)の確定」や「対象者の定義づけ」は、実務上、ほぼ不可能に近い難易度を伴います。データの追跡可能性(トレーサビリティ)の限界は明白です。
課題②:指標構築の限界(主観と文化の壁)
人的資本経営の核心とされる「ウェルビーイング」や「エンゲージメント」といった主観的な指標は、国、言語圏、宗教、労働文化によって受け止め方が根本的に異なります。多国籍に展開するグローバル企業ほど、これらを一律の基準でスコア化・比較したとしても、投資家にとっての意思決定有用性が担保されないという問題に直面しています。
課題③:マクロな社会リスクと株主への説明責任(フィデューシャリー・デューティー)
現在、世界中で格差の拡大が進行しており、これが経済全体に対するシステミック・リスクとなりつつあります。従業員のエンゲージメント低下がもたらす経済損失も大きく、人的資本の問題はもはや個社の範囲を超えたマクロリスクといえます。しかし、だからといって一企業が社会課題の全責任を負うことは現実的ではありません。企業には、どの領域にどの水準で投資するのかについて、株主に対する明確な説明責任(フィデューシャリー・デューティー)が求められます。
上記の課題を経営が超えていくためには、単なる倫理訴求にとどまるだけでは不十分であり、事業の前提としての必要性(例えば、優秀な人材こそが自社の価値創造の要であり、そのために多様性を尊重する必要があり、差別は一切許容すべきでないこと等)を説明できる文脈が必要になってきます。こうした視座において、社員の品格、組織風土、ブランド価値などの無形資産をより一層守っていくことの重要性が高まるものと考えられます。
では、これからの経営陣、CFO、IR部門はどう進むべきでしょうか。社会課題を完全に無視した経営が持続不可能である一方で、外部要請に流される形で行う受動的な開示は、企業価値への貢献が限定的となり、結果としてコストとして認識されるリスクがあります。他方で、自社の戦略と整合した内発的な意思に基づく開示は、企業価値を高める投資として機能します。
解決の鍵は、コンプライアンスとして「ルールに受動的に従うだけの開示」を脱却し、「自社の将来的なマルチプルや株式価値の向上にどう結びつくか」を示すインパクト評価へと発想を転換し、自社の価値創造ロジックを明示することにあります。
SECが主張するように、自社にとって「何が財務的に真に重要(マテリアル)か」を自ら定義する必要があります。ダウンストリームまで画一的に数値を羅列するのではなく、自社独自の「因果関係のロジックモデル」を構築し、それを投資家が評価可能かつ比較可能な形で提示する必要があります。
この「独自のマテリアリティ特定」と「人的資本投資が財務価値に変わる因果関係の可視化(インパクト評価)」こそが、株主利益を完全に守りながら、同時にサステナビリティ経営を他社との競争優位につながり得る有効なアプローチの一つとなります。
激変するグローバルな規制環境と実務の困難さのはざまで、今まさにサステナビリティ経営は、表層的な取組みの段階を脱し、「真の戦略性」が問われています。
報告書の紙面を埋めるだけの開示フェーズは終わりました。これからは、「企業価値(マルチプルやプレミアム)を創出するための人的資本戦略」を自ら語れる企業が市場の資本を引きつけます。
弊社は、人的資本や社会領域にかかる「インパクト評価モデルの構築」から、投資家やM&A市場を納得させる「戦略的開示ストーリーの策定」、さらにはマテリアリティと連動した「サステナビリティ経営体制の変革(トランスフォーメーション)」まで一貫して支援します。CFO・IR・経営陣と密に連携し、企業価値の最大化に直結する人的資本戦略の構築と実装を伴走支援します。
1. “ISSB to commence research projects about risks and opportunities related to nature and human capital”, IIFRS,
ifrs.org/news-and-events/news/2024/04/issb-commence-research-projects-risks-opportunities-nature-human-capital/(2026年6月10日アクセス)
2. "Launch of the TISFD Framework Beta Version 0.1", Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures (TISFD),
tisfd.org/frameworks/tisfd-framework-beta-version-0-1(2026年6月10日アクセス)
3. " How can investors balance short-term demands with long-term value?", EY website,
ey.com/content/dam/ey-unified-site/ey-com/en-lu/insights/climate-change-sustainability-services/documents/ccass-investor-survey.pdf(2026年6月10日アクセス)
4 “The future of transformation is human”, Oxford Said Business School,
ey.com/content/dam/ey-unified-site/ey-com/en-gl/noindex/documents/ey-the-future-of-transformation-is-human.pdf?mkt_tok=NTIwLVJYUC0wMDMAAAGiLytqLVz3KEjWfieFTsdnMfwPeQfys2qgCfWmP-TMS51dYEwHOg4Aiipg6ZGU-8rzIbr_TcummAkOMqf6byu-G0H9Q6dDhjlho_15GhNlx_ySUgGwci5w(2026年6月10日アクセス)
5. "SEC Proposes Rescission of Climate-Related Disclosure Rules" U.S. Securities and Exchange Commission (SEC),
sec.gov/newsroom/press-releases/2026-49-sec-proposes-rescission-climate-related-disclosure-rules(2026年6月10日アクセス)
【共同執筆者】
大竹 明子
EY新日本有限責任監査法人 CCaSS事業部 シニアマネージャー
APAC & Japanのファイナンス ディレクターとしてグローバル事業経営に従事。非財務情報を用いた企業価値の向上および成長戦略を支援。長期的な価値創造を⽬指す。
米国公認会計士(イリノイ州) GRI/ESRS認定資格者 オックスフォード経営大学院 経営学修士
米国SECの気候開示撤回提案とTISFDを背景に、人的資本開示の評価軸が変化。企業価値に直結する戦略的マテリアリティの重要性と実践の方向性を解説します。
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