2020年9月25日
ノーベル経済学賞で注目を集めた「ナッジ」とは何か

ノーベル経済学賞で注目を集めた「ナッジ」とは何か

執筆者 伊原 克将

EY ストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 ストラテジック インパクト マネージャー

行動科学トランスフォーメーション(BX)を切り口としたコンサルティングを手掛ける。趣味はアイスホッケー。

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2020年9月25日

ナッジには、どのような成功例が存在し、どのようなメカニズムで行動変容を促進することができるのか。また、マーケティングとは何が異なるのか。こういった疑問を構造的にかみ砕くことで簡潔に解説します。


「ナッジ」とは何か

ナッジは、米国シカゴ大学のリチャード・セイラー教授(「ナッジ」理論の提唱者であり、行動経済学の第一人者)のノーベル経済学賞受賞(2017年)によって、世界中で注目を集めることとなりました。これを受けて、セイラー教授の著書であり、ナッジを題材にした『実践 行動経済学』は全米でベストセラーとなりました。

ちなみに、ナッジを使った最も有名な成功例の1つは、オランダのスキポール空港の例です。同空港では、男性用の小便器の中央に小バエを描くことにより、大幅な清掃費削減に成功しました。男性がハエを狙って用を足すため、大幅に尿の飛び散りが減ったのです(*1)。

この『実践 行動経済学』では、ナッジを「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える『選択アーキテクチャー』のあらゆる要素」と定義しています。

要約すると、前半の「選択を禁じることも、~人々の行動を予測可能な形で変える」とは、「人のココロのクセを利用する」ということであり、後半の「選択アーキテクチャーのあらゆる要素」とは、「選択に影響を与える情報の提示手法」ということです。

つまり、ナッジとは、「人のココロのクセを利用した選択に影響を与える情報の提示手法」といえます。

「人のココロのクセ」には、どのようなものがあるのか

人のココロのクセには大きく3つのタイプがあることが分かっています(*2、*3)。1つ目は「限定合理性」です。これは、「できる限り、簡便な問題解決方法を用いて満足のできる選択肢を発見しようとするクセ」です。2つ目は「限定自制心」です。これは、「リスクについては過大評価し、時間については待つことを嫌う(長期的な利益に反してしまう)クセ」です。3つ目は限定利己心です。これは、「自身の利益を犠牲にしてしまったり、周りと違う意見・姿勢を貫くことを難しく感じたりするクセ」です。

これら3つのタイプごとに、「人のココロのクセ」のうち代表的なものをリストアップしました 。

限定合理性

名称 説明 代表例
フレーミング効果 本来、同じ内容を表すにもかかわらず、表現の仕方(フレーム)によって、受け止め方(選好)が変化すること 新薬利用の説明について、以下のAの説明(フレーム)のほうが賛成率は高くなる
1,000人の病気に苦しむ人たちがおり、そのまま放置すれば亡くなる場合の新薬利用について、
A:この薬で 700人の命を救うことができます
B:この薬で副作用のために300人が亡くなります
認知的不協和 個人内で行動や態度が矛盾しているとき、その矛盾に由来する意識的・無意識的な不快感を解消する方向性で、行動や認知が変化すること 原発シェア低下およびゼロにすべき(認知1)と電気料金値上がり反対(認知2)の認知的不協和の状況に対して、「①原発反対・値上がり容認」と「②原発容認・値上がり反対」の無理な選択をさせた場合、①の選択者はより値上がり容認に、②の選択者はより原発容認に選好が変化する(認知1と2の不協和を解消する方向に選好が変化する)
代表性(レプレゼンタティブネス)バイアス 人が判断する際には、論理や確率の合理性に完全に従うのではなく、目立った特徴や表面的な特徴の類似性や、あることがどのあることがどの程度「ありがち」(典型的)なことかに大きく影響を受けた判断を下すこと 結婚5年目、明るくて社交的、留学しMBAを取得しているA子さん(35歳)が、「1児の母親であり、かつキャリアウーマンでもある」という確率が、「1児の母親である」という確率よりも高く見積もられてしまう(本来は、前者の確率のほうが低い)
想起しやすさ(アベイラビリティ)バイアス 心に思い浮かびやすい思い出や事柄に過大な評価を与えてしまうこと 2011年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロのあと、メディアによる報道の影響もあり飛行機事故による死亡のリスクが過大に評価され、飛行機での移動をやめて自動車で移動する人が全米で増えた結果、移動にともなって死亡する人が増加した(本当は飛行機移動の方が車移動よりも安全)
係留(アンカー)バイアス 人が、最終的な答えを得る過程で、初期情報に依存し、出発点から目標点に至る間に、十分な心理的調整ができないこと 「富士山の標高は何メートルか?」という質問の前に、以下のAとBを質問した場合、Bの質問の後のほうが標高を高めに見積もる回答が多くなる
A:富士山の標高は3,000メートル以上か?
B:富士山の標高は4,000メートル以上か?

限定自制心

名称 説明 代表例
確実性効果 人は、100%確実な性質を重視してしまうこと。99%の確率で当たる場合でも、1%の外れる確率を嫌う 以下の2つの選択肢を提示された場合、AよりもBを選択する人が多い(ただし、「期待効用=確率×効用」はAのほうが高い)
A:80%の確率で4万円もらえる
B:100%確実に3万円もらえる
損失回避効果 人は、利得の効用よりも、損失の負効用を、同じ額面の金額に対して2~3倍も大きく見積もること 以下の2つの選択肢を提示された場合、BよりもAを選択する人が多い(人は損失を避けるためならリスクを取る)
A. 80%の確率で4万円を支払う
B. 100%の確率で3万円を支払う
現在性効果 人は、今すぐの現在という特別な瞬間を重視する傾向にあること。具体的には、人は、今すぐもらえることを特別に好むが、しかし、多少待つならば、より長く待つのも一緒だと割り切ってしまう傾向のこと 以下の2つの質問について、質問1はBよりもAを、質問2はCよりもDを選択する人が多い
質問1
A:今すぐに3万円もらえる
B:1年後に4万円もらえる
質問2
C:1年後に3万円もらえる
D:2年後に4万円もらえる
現状維持バイアス 個人あるいは社会にとって、望ましい選択肢があるにもかかわらず、現状に固執し、より良い行動変容を進んでは求めないこと 臓器提供の意思表示について、オプトイン方式 を採用しているデンマーク、ドイツ、イギリス、オランダの同意率は4~28%であるのに対し、オプトアウト方式 を採用しているスウェーデン、ベルギー、ポーランド、ポルトガル、フランス、ハンガリー、オーストリアの同意率は86~100%と、圧倒的な差がある

限定利己心

名称 説明 代表例
クラウディングアウト(アンダーマイニング効果) 内発的動機(道徳心・好奇心・やりがいなど)が働いている状況下で、表彰や金銭のような外的報酬外的報酬を与えてしまうと、かえって内発的動機を損なってしまい、行動が減衰すること。「報酬を得られたのは自分がうまくやれたからだ」と感じられれば同現象は生じないが、「報酬によりコントロールされている」と感じてしまうと同現象が生じる 図書館でのデータ入力と募金の収集という2つの作業において、募集時に告知した金額よりも多いアルバイト謝金を払った場合でも、実験協力者の努力水準に差はなかった
社会規範 周囲の人の行動、同じ状況にある他人との比較、道徳的命令から影響を受けてしまうこと。「正確な判断を行いたい」ため周りの行動を参考にする情報的影響と、「他者の欲求に応えたい」ため周りの行動を参考にする規範的影響の2種類が存在する 「自分の1日の歩数が全体の何%よりも高かった(あるいは、低かった)」という相対順位をフィードバックすることによって、歩数のフィードバックのみを行ったグループと比較して、1日当たりの歩数が増加する

マーケティングとナッジは何が違うのか

ナッジに関してよくある質問の中に、「以前からマーケティングで使われている手法と何が異なるのか」という質問がありますが、マーケティングとナッジは下表のように、①定義、②適用範囲、および③理論を裏付ける学問が基本的に異なります。

ナッジとマーケティングの違い(*5)

項目 ナッジ マーケティング
定義 人のココロのクセを利用した
選択に影響を与える情報の提示手法
企業が商品やサービスを販売するための手法や活動
適用範囲 公共利益(本人の長期的利益も含む)
の増進のために合理的で正しい判断を
させたいケース
企業利益の追求のために顧客に
商品やサービスを購入させたいケース
理論を裏付ける学問 行動経済学・心理学
(多様な実験に基づいて理論を構築)
経営学
(実際の経営事例に基づき理論を構築)

したがって、例えば、お試し期間の一カ月については無料で、その期間が終わると有料価格で自動的に再契約させるような例は、人のココロのクセを利用した例とは言えますが、ナッジの活用例とは言えません。なぜならば、サービスの有料化は企業利益の追求を目的としたものであり、公共利益の増進につながるものではないためです。

他方で、例えば、エアコンのフィルター交換を知らせる赤ランプは、人のココロのクセを利用したナッジの活用例と言えます。なぜならば、赤ランプによる通知は、私たちの省エネ行動(エアコンの効率的なエネルギー消費)を促進することで、公共利益を増進するためのものと言えるからです。

以上のように、ナッジは「公共利益の増進」のために利用することを前提としています。そのため、世界中の公共政策分野においてナッジの活用が広がりました。他方で、最近では、持続可能な開発目標(SDGs)や環境イニシアチブであるRe100(100% Renewable Electricity)に代表されるように、企業が公共利益の増進のための活動を推進する社会課題解決型のビジネスが増えています。つまり、今後はナッジが公共政策の垣根を超え、企業の社会課題解決型のビジネスを推進するマーケティング活動の一環として活用されるケースが拡大すると予想されます。

*1 リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践 行動経済学』(日経BP、2009年)

*2 経済協力開発機構(OECD)(濱田久美子訳)『環境ナッジの経済学 行動変容を促すインサイト』(明石書店、2019年)を基にEY作成

*3 依田高典『「ココロ」の経済学-行動経済学から読み解く人間のふしぎ』(筑摩書房、2016年)を基にEY作成

*4 経済協力開発機構(OECD)(濱田久美子訳)『環境ナッジの経済学 行動変容を促すインサイト』(明石書店、2019年)および依田高典『「ココロ」の経済学-行動経済学から読み解く人間のふしぎ』(筑摩書房、2016年)を基にEY作成

*5 リチャード・セイラー、 キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践 行動経済学』(日経BP、2009年)を基にEY作成。ただし、ナッジやマーケティングにはさまざまな定義が存在することに注意が必要。本表では、両者の違いを区別するために、特徴的な点に限定して両者の違いを整理している。

サマリー

ナッジとは「人のココロのクセを利用した選択に影響を与える情報の提示手法」です。ナッジは公共利益の増進を目的としているのに対し、マーケティングは企業利益の追求を目的としている点で異なります。今後は、ナッジが社会課題解決型のビジネスを推進するツールとして活用されていくことが期待されています。

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執筆者 伊原 克将

EY ストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 ストラテジック インパクト マネージャー

行動科学トランスフォーメーション(BX)を切り口としたコンサルティングを手掛ける。趣味はアイスホッケー。

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