第1章
トレンド1:患者を中心に据える
患者を中⼼とした医療実現のために、テクノロジーをどのように活⽤しますか。
今のところ、患者や消費者側が使い勝⼿の悪い医療インフラに適応しなければなりません。この現⾏モデルは、医療機関主導・供給側重視型で、サイロ化しています。将来はつながりのある、顧客のニーズに対応したモデルになると考えられます。

患者の間では、個別化されたシームレスで説明の行き届いたエクスペリエンスを求め、期待する声が⾼まっています。それに応えるためには企業同士が連携し、患者中⼼のヘルスケアエコシステムを再構築しなければならないでしょう。このような患者中⼼の医療モデルでは、データを集計・共有して顧客のニーズと欲求を全て把握し、対応していくことが必要になります。患者が時間とエネルギーを費やしてシステムについて調べ、利⽤するのではなく、医療が患者に寄り添わなければなりません。
テクノロジーはすでに、患者とつながり、サービスを提供することに貢献しています。2020年に特に顕著だった例が遠隔医療です。Teladoc社が185億⽶ドルでLivongo社を買収したことからも、オンライン診療分野が急速に成熟しつつあることが分かります。このような大きな買収以外にも、テクノロジーを活⽤したエクスペリエンスの迅速化、ストレスフリー化、効果向上が複数の分野で進められています。しかも、ヘルスエクスペリエンスに⼒を⼊れているのは医療機関や保険者だけではありません。⼀部のバイオ医薬品企業では、医薬品の販売にとどまることなく、患者と直接向き合い、患者のこれまでの経緯を把握し、より良い治療かつより優れたケアエクスペリエンスを届ける必要性を認識しています。事例は以下をご参照ください。
- AstraZeneca社は2020年3⽉、(呼吸器系、⼼筋系、腎臓系などの)慢性疾患を管理するクラウドベースのプラットフォームであるAMAZEをリリースしました。将来的には、全ての患者が2種類の処⽅箋を持って帰宅することを同社は想定しています。1つは医薬品の処⽅箋、もう1つはデジタルツールの説明書です。このデジタルツールを使うことで、患者と臨床医は退院後の薬の効き具合をモニタリングし、必要に応じて治療方針を変更することができるようになります。
- Roche社は治験を簡素化し、参加しやすい環境づくりを進めています。これは患者のためにも臨床医のためにもなる取り組みです。その1例がProspective Clinico-Genomic Studyです。同社の⼦会社であるFlatiron Health社、Foundation Medicine社、Genentech社が共同でこのフィージビリティースタディーを進めています。この研究ではリキッドバイオプシーと遠隔モニタリングを利⽤して、さまざまなデータストリームを把握します。そのため、患者は定期的に病院に⾏く必要がなく、侵襲的検査を受けることもありません。同社がこれらのデータを集める⽬的は、患者の既往歴を把握し、⾼度に個別化した治療方針を⽴てて改善に役⽴てることです。
- Novartis社とBiofourmis社は、⼼疾患のある患者の状態を逐次把握するプラットフォームを開発しました。退院する患者にNovartis社の⼼疾患治療薬EntrestoとBioufourmis社のセンサーEverionを渡し、このセンサーで22項⽬の⽣体情報をリアルタイムで計測します。患者の状態を常にモニタリングしているため、臨床医は必要な場合に速やかに対応できます。
- Pear Therapeutics社とetectRx社は2021年1⽉、Pear社のイノベーション(薬物乱⽤と不眠症を対象とした先駆的なデジタル治療アプリ)とスマートピル(体内摂取型ワイヤレスセンサーを搭載し、服薬順守を逐次チェックする製品)を組み合わせる取り決めを結びました。プラットフォームを融合させることで、患者への関わり⽅とサポートの幅が広がります。また両社は、医薬品企業と協働し、この技術を治験プログラムに組み込むことも視野に⼊れています。
- Color Genomics社は当初、がん診断分野に注⼒していましたが、現在では新型コロナウイルス感染症検査の全⽶での普及に⼒を⼊れています。同社がもたらす独⾃の価値は、実際の検査にとどまりません。その拡張性と柔軟性を備えた「インフラ」を病院や診療所だけでなく、学校や職場など、患者がいる場所へどこへでも届けています。アクセスの拡⼤、プロセスなどの円滑化、エクスペリエンスの向上といった課題に取り組むためには、業界全体が製品の提供だけに満足することなく対応していく必要があります。同社はその道筋を⾃ら⽰しています。
未来の医療ネットワークとして現在浮上しているのが、⾼速5G接続をベースとしたネットワークです。ここでは体内に埋め込んだセンサーや皮膚上のセンサー、周囲の環境にあるセンサーと、これらのセンサーのデータを照会して詳細な知⾒をもたらすAIアルゴリズムを連携させます。患者中⼼の医療を実現し、患者⼀⼈ひとりに⼒を与える個別化された一体型ソリューションを提供するには、このネットワークで継続的に得ることができる豊富なデータと知⾒が不可⽋です。
どのようなソリューションを提供する必要があるかは、その企業が以下のビジネスモデルのどれを選択するかにより変わってきます。
- ブレークスルーイノベーターは、個別の遺伝情報や表現型情報を取得できるセンサーを開発し、普及させていく必要があるでしょう。それにより個別化された⾼精度の治療が可能になり、場合によっては⾼い治癒効果が期待できる個別化医薬品も提供できるようになります。このアプローチが現実のものとなりつつある分野の1つが、細胞・遺伝⼦治療です。
- 疾病マネジャーは、製品とサービス、情報をその個⼈に最適な形で組み合わせて提供することに⼒を⼊れていく必要があるでしょう。それを⽀える⼟台となるのがセンサーです。センサーを活⽤することで、臨床医は患者の疾患の進⾏をモニタリングし、管理して健康の回復を助けることができます。これは、例えば⼼疾患のある患者に、それを治療する製品を提供するということだけではありません。患者の疾患(⼼疾患だけでなく、その患者が抱える全ての併存疾患)の状態をより完全に把握し、体調を継続的にモニタリングして管理することです。
- エフィシェントプロデューサーには、センサーを活⽤した機敏な事業運営が必要となるでしょう。センサーでデータを取得することで、顧客のニーズなど市場が発するシグナルに迅速かつ最⼩限のコストで対応することが可能になります。また、市販薬や汎⽤デバイスを⼿頃な価格で市場に安定供給することにもつながります。
- ライフスタイルマネジャーは、消費者⼀⼈ひとりの好みとライフスタイルを把握するため、センサーを⼤いに活⽤することになるでしょう。それによりコンシューマー向け健康商品、ナッジ、栄養コーチングなどのサポートを各個⼈に最適な形で組み合わせて提供することができます。
患者を中⼼に据えるためには、以下の対策を講じる必要があります。
- 他企業とパートナーシップを組むか、他企業を買収して、利⽤者中⼼の設計、⾏動科学、サービスに関する新たなケイパビリティを確保する。
- ボディーセンサー解析、AI、機械学習アルゴリズム、相互運⽤可能なシステムの統合や、その周辺の専⾨知識を構築または有料で⼊⼿する。
- より良いヘルスソリューションの開発に的を絞り、使い勝⼿の良い医療機器や診断法に医薬品を組み込む。
第2章
トレンド2:サプライチェーン
製品とサービスをどこへでも届けるために、オペレーションモデルをどう変えますか。
企業は製品だけでなく、サービスからも価値を提供する必要があります。現在の直線的なサプライチェーンは、⾼いサービスレベルを実現し、規制当局が求めるコンプライアンス要件を満たしてはいるもののスピーディーで機敏な対応には向いていません。業界のサプライチェーンは今回のパンデミックに十分に耐えるものであることが分かりましたが、クロスボーダー取引に大きな混乱が生じると、グローバルサプライチェーンには限界があることも露呈しました。
ヘルスサイエンス・ウエルネス業界の今のサプライチェーンに特に⽋けているのは、エンド・ツー・エンドの可視性です。企業にとっては、サプライヤーや委託製造拠点の透明性は確保されていません。供給基盤を⽀えるデジタルテクノロジーの接続性の⽋如を考えると、ネットワークパートナーとのデータ共有は不可能でないとしても難しいのが現状です。個別化医療モデルでは、これまでとは異なる次元でのサプライチェーンの透明性と統合が必要となります。

ビジネスモデルによって、個別化医療の形も異なります。
- ブレークスルーイノベーターでは、個別化されたサプライチェーンとは、患者⾃⾝の細胞から作る⾃⼰細胞治療製品のような、個々に合わせた製品を提供するサプライチェーンを指すことになるでしょう。
- 疾病マネジャーでは、個別化されたサプライチェーンとは、適切な製品とともに、その製品に関連して、例えば患者のコンプライアンス向上につながる適切なサービスを提供できるサプライチェーンを指すことになります。このような製品としては、薬の服⽤を忘れないよう注意を促し、正しく服⽤しているかを確認するデジタルツールや、健康状態をモニタリングできるセンサーなどが挙げられます。このセンサーの利⽤は慢性症状をコントロールする⼀助となります。
- エフィシェントプロデューサーでは、極めて機敏で、柔軟かつ強固なサプライチェーンを構築すること、そしてそのサプライチェーンを、⾮常に⾼い稼働率を維持しながら、⼊札の落札結果の予想など、どの程度の需要があるかを予測して整備することが課題です。
- ライフスタイルマネジャーでは、サプライチェーンで予測分析を活⽤することで、先を⾒越して消費者の需要に対応し、その需要に影響を与えることが可能になります。個々の消費者が何を望んでいるかを事前に予測してソリューションを提供していくことになります。
よりきめ細かな医療をリアルタイムで提供する体制を整えるために、このように個別化された未来のサプライチェーンが患者に製品とサービスを届けながら、同時に細胞や個別データなどの素材を患者から採取する必要があります。
個別化された医療の提供では、柔軟なパートナーシップの構築も必要です。複雑さを増すネットワーク全体に迅速につながり、病院、医師、メーカー、医療提供者、臨床検査室が必要に応じてデータを素早くやり取りできるようになるからです。このようなネットワークには、供給不⾜への対策として、おそらく新規参⼊企業とのパートナーシップも加わることになるでしょう。
個別化されたサプライチェーンの構築には、以下の対策を講じる必要があります。
- 患者からサプライヤーのネットワークに⾄るまで、サプライチェーンのエンド・ツー・エンドの可視化を優先的に進め、リスク管理の強化と回復⼒の向上を図り、市場が発するシグナルをリアルタイムで⽣かし、迅速な意思決定体制を整える。
- ⾰新的な製品の臨床開発と並⾏して、新たなサプライチェーンと製造システム全体を短期間で構築し、⼀元化する能⼒を培う。
- 製品とプロセスに関して連携するパートナーシップを構築し、多様なサプライチェーンネットワーク全体が柔軟かつ素早くつながることのできる体制を整える。
第3章
トレンド3:アウトカムを目に見える形で示す
信頼ギャップを埋めて、共に価値を創るには。
世界的に⾒て、医療費のGDPに占める割合が⼤きくなっています。治療の個別化が進むにつれて複雑さは増し、少なくとも短期的にはコスト圧⼒が⾼まります。そのため、アウトカムベースの新たな⽀払いモデルの導⼊が急務となるはずです。出来⾼払い制が主たる償還モデルであることに変わりはありませんが、個別化された⾰新的な製品やサービスが正当な評価や報酬を受けるためには、それが医療分野のステークホルダーとエコシステム全体により⼤きな価値をどのようにもたらすのかを⽰す必要があるでしょう。
保険会社、政府、医療機関、患者の全員がヘルスアウトカムの向上を求めていますが、価値の定義やそれぞれの利害関係は必ずしも⼀致していません。⾰新的契約が価値の調整を補強する役割を期待されています。新たな医薬品の導⼊で考えた場合、治験でその製品の有効性と期待されるアウトカムが確認されることにより、医療効果を示す製品は保険償還を受けることができます。
ただ、そのアウトカムの向上がリアルワールドで実証されるまで、医療機関は処⽅に消極的であり、保険会社も保険の償還に難⾊を⽰すため、その効果を体験する患者も少なくなります。製品の保険償還にリアルワールドでの効果を連動させる契約を結ぶことで、医薬品企業は医療機関とリスクを共有できます。市場アクセスを迅速化させることも可能となるでしょう。


これまで⾰新的契約は複雑で導入が難しく、管理に費⽤がかかり、さまざまなペイヤーや地域を巻き込むことも困難でした。このような問題も、現在では解決できるようになってきました。例えば、プラットフォーム技術を活⽤して、さまざまな関係者がデータを取得・共有・チェックすることで、管理や採⽤の普及を阻んできた主な障害を軽減できます。
現在⼤きな課題となっているのが、どのデータが実際に価値を示すのかについて同意することです。ペイヤーやライフサイエンス企業をはじめとするステークホルダーは、どのアウトカムが有意義であるのか、そして測定の期間について認識を合わせる必要があります。今後、臨床データだけでこのような価値を評価するのはますます難しくなるでしょう。医療の効率と提供場所に関するリアルワールドデータから、病院と医療システムのコスト削減の重⼤なヒントが⾒つかる可能性があります。同じく重要なのが、患者のエクスペリエンスであるQOLと服薬順守の向上です。⾰新的契約アプローチをとることで、患者のエクスペリエンスをより的確に測定し、対応することも可能になります。
医療費が高騰しています
475,000米ドル新たな細胞・遺伝⼦治療の料⾦における上昇額
結局のところ、どれが最も価値の⾼いデータであるかは、疾病の重症度や、それを予防・管理・治療する能⼒を含め、数多くの要素によって決まります。ライフサイエンス企業の場合、価値を求めているのはどのステークホルダーか、その価値をどのように創造するかにも左右されることになるでしょう。例えば、ステークホルダーは消費者か、医療システムか、価値の創造は⾰新的な製品やサービスからか、顧客についての詳細かつ的確な理解からかを考えることになります。⾔い換えれば、どのアウトカムデータを優先すべきかは、その企業が採⽤するビジネスモデルに応じて決める必要があります。
- ブレークスルーイノベーターは、⾮常に⾰新的な製品やサービスで価値を創造します。そのため、優先すべきなのは遺伝⼦診断など、コンパニオン診断を含めた個別化臨床データの収集です。
- エフィシェントプロデューサーは、費⽤対効果の⾼い治療とサービスの提供により、最⼤の価値を提供しています。そのため、社会全体で医療費を削減していることを⽰すデータを集める必要があります。
- 疾病マネジャーとライフスタイルマネジャーには、アウトカムの測定に⾮臨床的な尺度が不可⽋です。この2つのビジネスモデルを採⽤する企業には、より包括的なペイシェント・エクスペリエンス(PX︓患者経験価値。患者中⼼の医療の観点で、患者が医療サービスを受ける中で経験する全ての事象)の管理と、より⼈道的⾊彩の濃い価値を測定できるデータへのアクセスが必要です。QOLを例にとると、働き続けられること、⾃⽴して⽣活できること、再発や副作⽤を防⽌できることはいずれも、慢性の炎症疾患や神経変性疾患を抱える⼈々にとって重要なアウトカムです。このような疾患に苦しんでいる⼈々は甚⼤な数に上っているため、障害調整⽣命年(健康障害に伴う⽣産性の低下を数値化するためにエコノミストが⽤いる指標)の年数を減らすことができる医薬品の効果にも、投薬医療を⾦銭的に⽀える経営者や医療機関は関⼼を寄せるはずです。
より良いアウトカムを⽬に⾒える形で⽰し、⾰新的契約の利⽤を加速させ、業績の拡⼤を図るためには、以下の対策を講じる必要があります。
- どのように製品とサービスを利⽤すれば、医療システムのコストを削減し、経営者と個々の従業員の⽣産性を⾼めることができるかをあらかじめモデル化する。
- 消費者団体、テクノロジー関連団体、その他の組織と連携して、治療アドヒアランス向上につながる使いやすいデジタルツールとサービスを開発し、その有効性を検証する。
- 規制当局と協⼒して、製品の承認と保険償還の決定でのリアルワールドデータの活⽤を強化する。
第4章
トレンド4:データ
自分の所有ではないデータが必要なとき、誰と提携しますか。
ヘルスケア業界は毎年、かつてないほどの⼤量のデータを⽣成しています。しかし、そのデータはサイロ化されているため、そこから得られる幅広い真の価値を引き出すことがなかなかできません。技術的な問題、規制当局の慎重な姿勢、「所有権」の問題があり、サイロ化の解消が難しくなっています。その⼀⽅で、企業⾃体の姿勢がより⼤きな障害となっている場合も少なくありません。つまり、企業がデータを単に保護すべき資産と考えているのです。ポテンシャルはあるもののまだ⼿付かずのデータや、分析結果に含まれる可能性のある未登録の知的財産に関して、競合他社のアクセスを許すかもしれないとの恐れから、システム間でデータの転送を容易にすることに難⾊を⽰しています。
ヘルスケア企業による生成データは、今年900%近く増加しています
50テラバイト2020年に全世界で生成されたデータの1人当たりの平均値
医療データは⾶躍的なペースで増加していますが、現実には企業が保有できるデータは全体の微々たる量であ り、その程度にとどめるべきです。企業もデータの保有を望んでいるわけではありません。重要なのは、⾃社のサーバーに保存されている⽣データ(構造化データ、⾮構造化データ)の量ではなく、アクセス・照会・活⽤できるデータです。データの保有にはコストがかかりますが、データにアクセスして照会することで、知⾒が⽣まれ、医療システムに価値をもたらすことができます。データ資産を金銭化することに価値はなく、的確な問い掛けをし、バラバラなデータストリームをつなぎ、組み合わせて、その問いの答えを⾒いだすことにこそ価値があります。

データの共有やアクセスの許可を拒むことが、医療の有意義な進歩を著しく遅らせています。⻑期的には、医療技術同⼠を結び付ける中でつながりのある柔軟な情報アーキテクチャが⽣まれ、より質の⾼い医療データの流動化が可能になるでしょう。このように「超流動化」したデータがスムーズに流れる環境は新たな知⾒を次々と⽣み出す無限の可能性を秘めており、医療に変⾰をもたらすことになります。ただ現時点では、データを取り巻く課題に対してより限定的かつ戦略的なアプローチをとる必要があります。全ての企業が問うべき重要なポイントは以下の2つです。
- 必要なデータにどのようにアクセスするか。
- どのデータが自社のビジネスモデルにとって最も重要か。
医療システム内には長期間にわたって蓄積された患者レベルのデータが豊富にあり、企業はすでにこのデータにアクセスするためのアプローチを数多く模索しています。⼀⽅、データセットをつなぎ、組み合わせることや、知⾒の共有を企業に許可することで、医療システム側にも恩恵があります。例えば、英国の国⺠保健サービス(NHS)は、仮に5500万件の患者記録へのアクセスを企業に許可していたら、運営コストの削減、患者アウトカムの向上、経済的利益の拡⼤により、46億ポンド(約63億3,000万⽶ドル)の価値を生んでいたと推定されています1。プライバシー法やデータセキュリティ法で医療システムとライフサイエンス企業の間のデータ共有が制限されているとはいえ、データにアクセスするための「安全な空間」、信頼できる研究環境、サードパーティーのデータブローカーとの取り決めなどの対策を講じれば双⽅の連携は可能になります。
センサーの出現でデータの継続入手が可能となり、過去の⼤量のデータセットを掘り起こす作業は、今後は価値のないものとなるでしょう。センサー、ソーシャルメディア、社会経済的指標、その他複数の潜在的情報源から異なる期間にわたって蓄積されたデータであろうと、患者・消費者に関わる広範囲に及ぶ臨床・⾮臨床データが⼤量に融合し、価値を生むことになるでしょう。企業が最終的にどのデータを優先させるかは、そのビジネスモデルのアプローチによって決まることになるでしょう。
- ブレークスルーイノベーターが重視する必要があるのは、遺伝子データ、表現型データ、バイオマーカーデータなどです。例えば、対照群のシミュレーションからアウトカムを予想することで、精密医療を推進し、患者の反応を分析・微調整して、治験を円滑に進めることができます。
- 疾病マネジャーには、幅広い臨床・⾮臨床の個⼈データが必要です。こうしたデータから複雑な慢性疾患を解析し、個別化管理に適したツールを選ぶことができます。例えば⾏動データは患者の服用順守とセルフケアを向上させるための指導に役⽴ちます。
- エフィシェントプロデューサーにとって不可欠なのは、バリューチェーンのあらゆる段階でより迅速かつ費用対効果の高い意思決定を可能にするデータです。プロセスの合理化、自動化、迅速化に役立ちます。
- ライフスタイルマネジャーには個別化データが必要です。積極的に個々の人の健康状態に向き合い、消費者の行動と好みを予測し、その人に合ったやり取りをすることができます。
臨床面とビジネス面の業績向上に必要なデータへのアクセスを確保するためには、以下の対策を講じる必要があります。
- 信頼できる研究環境の整備、データ連携システムに関する取り決めの策定、その他の革新的ソリューションの構築により、入念な審査をした上で企業にデータへのアクセスと利用を許可する。
- 規制機関や医療分野のステークホルダーと緊密に協⼒して、サイバーセキュリティに関する規範などの体系的な基準を設けてデータインテグリティを確保する。
- 人材の再教育または確保により、専有アルゴリズムなどのデータ製品を開発し、研究開発プロセスを強化する。
第5章
トレンド5:サステナビリティ
⾃社の取り組みが持続可能で、⻑期的価値の創造に重点を置いているビジネスモデルであるという確信はありますか。
消費者と投資家は、環境のサステナビリティと幅広い社会的影響を重視する姿勢を強めており、新たに生まれたヘルスケアブランドを評価する際に、これまでとは異なる基準を用いる傾向を強めることになるでしょう。EYのプロフェッショナルが2021年2月、1万5000人弱の消費者を対象に調査を実施した結果、回答者の45%がサステナビリティの重要性が1年前より増したと考えていることが分かりました。
BlackRock社の会長兼CEOであるLarry Fink氏も、投資先企業の各CEOに宛てた2021年の書簡の中で、この「サステナビリティプレミアム」を強調しています。同社の分析によると、自動車業、銀行業、エネルギー業では、環境・社会・ガバナンス(ESG)プロファイルの優良企業が世間の支持を集めるだけでなく、競合他社より好業績を上げています。Fink氏は「顧客や従業員、コミュニティーに価値をもたらす中で自社のパーパスを明確に示すことができれば、競争を有利に進め、ステークホルダーに長期的利益をもたらすことができるようになるでしょう」と述べ、その重要性の再認識をビジネス界に促しています2。
サステナビリティに向けた取り組みの測定と報告を求める声が⾼まる中、資本調達がESG情報の開⽰状況とより密接に結び付くようになるのはまず間違いありません。実際のところ、2020年1⽉から11⽉までの11カ⽉間に行われた投資信託とETF(上場投資信託)の投資家のサステナブル関連投資は2,900億⽶ドル近くに上り、2019年から96%増えています。また、バイオ医薬品企業と医療機器企業が、サステナビリティ⾯のコンプライアンスに基づいて有利な借入条件を受ける事例も出てきています。
ライフサイエンス企業とヘルスケア企業がサステナビリティアジェンダを改善する際には、まず根本的な課題に取り組む必要があります。それはその指標をモニタリングと開示の対象にするのかを具体的に定めることです。疾病の管理と治療に貢献する製品とサービスに⾮常に⼤きな社会価値があることは⼀⽬瞭然でしょう。しかしESGの観点から⾒ると、こうした製品とサービスがもたらす問題は単に社会的なものにとどまりません。環境や経済に与える問題もまた重要です。ぜんそくや肥満糖尿病など慢性疾患の発症率が上昇しており、気候の悪化と健康の悪化との間に関連性があることは明らかです。そのため、このような疾患の治療薬を開発している企業に対しては、製造拠点とサプライチェーンを常に厳しく監視する責任があります。
問題となるのは、サステナビリティ測定の指標が数多く存在することです。「適切な」指標についての合意がないため、各企業は⾃社が得意とする分野の指標を強調し、それ以外の指標の使⽤をできるだけ控えてきました。このように企業が⾃由に指標を選択して報告している状況が投資家の懐疑⼼を⽣み、業界が根本から前進することを妨げています。これでは各企業のサステナビリティに関して有意義な⽐較はできません。
グローバル・レポーティング・イニシアチブやサステナビリティ会計基準審議会などが開発した指標を精査した結果、今優先すべきは4つの要素と関連したセクターに特化した指標だと考えられます。いずれもヘルスケア関連の製品・サービスの社会価値と環境価値を直接反映した要素です。テーマ別に分類すると以下のようになります。
- 責任あるイノベーション︓新たな製品とサービスがアンメット・メディカル・ニーズにいかに対応し、⼀般的な疾患と希少疾患の治療に役⽴っているかを表す尺度
- アクセスとアフォーダビリティ︓救命のための治療やサービスの普及と⼿の届く価格に設定されているかどうかの点から公衆衛⽣の向上を表す尺度
- 信頼と質︓企業は⾃社が提供する治療やサービスの質、安全、安⼼を特に重視しなければなりません。これには、倫理的なプロモーションに関する規範の順守も含まれます。
- 気候変動による健康への影響︓気候変動は健康に直接影響を与えます。そのため、企業は⾃社の⼆酸化炭素排出量を測定し、⽔と廃棄物の管理⼿順を評価し、環境活動やサプライチェーン活動に起因する疾病負担の増⼤を抑える必要があります。
これらの要素には、それぞれ関連する指標が数多くあります。いずれも追跡する価値のある尺度です。例えば、責任あるイノベーションに関連する指標として考えられるのは、疾患の治療や緩和を⽬的とする製品とサービスの数、企業のポートフォリオの中でアンメット・メディカル・ニーズに対応する製品の数などです。⼀⽅、アフォーダビリティとアクセスの尺度としては、医薬品アクセスインデックス(ATMインデックス)のスコアなどが考えられます。このインデックスは、医薬品企業の製品価値がいかに健康アウトカムを向上させ、医療を必要とする患者へのアクセスを可能にしているかを表す、広く認められたベンチマークです。企業は中核となる価値提案を反映した指標に重点を置いていますが、同時に⾃社のビジネスモデルに応じて優先すべき尺度の選定もしなければなりません。
- ブレークスルーイノベーターは、責任あるイノベーションを重視することで最⼤の価値を創造する可能性が⾼いビジネスモデルです。世界各地のアンメット・メディカル・ニーズに対応した治療効果の⾼い製品には、特に重点を置く必要があるでしょう。
- 疾病マネジャーは患者と緊密な関係を構築し、慢性疾患を最適な⽅法で管理して、患者の健康を維持することで価値を創造します。製品やサービスをその時点での規制ガイドラインに常に沿ったものにしておくことが不可⽋です。医療分野の製品とサービスの利⽤で⽣まれる医療データのプライバシーとセキュリティに関連する新たな基準もこれに含まれます。
- エフィシェントプロデューサーは、⼈々が経済的に⽣産的な⽣活を送ることができるようにすることで価値を創造します。最も重要なのは、できるだけ多くの⼈々が⼿の届く価格で医薬品やサービスを利⽤できるようにすることです。
- ライフスタイルマネジャーは、ウエルビーイングや未病の状態に関わる消費者向けの商品やサービスに主に注⼒しています。そのため、重視する必要があるのは、より幅広い環境のサステナビリティへの取り組み状況を⽰す指標です。例としては、製造活動やサプライチェーン活動におけるクリーン化の状況を表す指標が挙げられます。EYの調査データによると、回答者(消費者)の72%が、企業の⾏動はその企業が販売する商品と同じくらい重要だと考えています。つまり、消費者向けヘルスケア分野で市場シェアを確保するためには、顧客と倫理観を幅広く共有していることを⽰す必要があります。
サステナビリティに真摯に取り組む姿勢を⽰すためには、以下の対策を講じる必要があります。
- 責任あるイノベーション、アクセスとアフォーダビリティ、信頼とコンプライアンス、気候変動という4つのテーマから、サステナビリティの⽬標に対して進捗状況を測定する枠組みを構築する。
- ⾃社のビジネスモデルに合わせて指標の優先順位を決める。アンメット・メディカル・ニーズに対応した、治療効果の⾼い薬の開発に注⼒することで最⼤の価値を創造する可能性が最も高いのは、開発を⼿掛けるブレークスルーイノベーターの企業となる。アンメット・メディカル・ニーズには世界的に流⾏する可能性のある未知の感染症も含まれる。
- サステナビリティ活動が株主利益と投資家からの資本調達にいかにプラスの効果をもたらしているかをモニタリングし、伝える。
上記の5つのトレンドがヘルスサイエンス・ウエルネスの在り⽅を変えつつある今、ヘルスエクスペリエンスを⽣み出すデータの⼒を引き出すことに将来のヘルスケアの価値があることを、企業は認識しなければなりません。

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サマリー
新型コロナウイルス感染症の拡⼤で、医療のデジタルトランスフォーメーションの普及が加速し、企業の現在のケイパビリティと今後の成⻑に必要なケイパビリティとのギャップが浮き彫りとなりました。
患者・消費者からの要望を受けて、新たなテクノロジーと、テクノロジーを推進するデータを受け⼊れ、導⼊する動きが加速しています。データを活⽤したトランスフォーメーションにより、かつてないレベルでの個別化が可能になり、ヘルスサイエンス・ウエルネス業界全体でバリューチェーンのあらゆる部分のディスラプション(創造的破壊)が起こるでしょう。