15 分 2022年10月5日
メタバースにより新たなエクスペリエンスが生まれる中、人間の行動はどう変化していくのか

メタバースにより新たなエクスペリエンスが生まれる中、人間の行動はどう変化していくのか

執筆者 Nicola Morini Bianzino

EY Global Chief Technology Officer

ニコラ・モリーニ・ビアンジーノ/グローバルなEYの組織が展開するサービスラインとマーケットの中心に、テクノロジーを据える。ニューラルネットワークのパイオニア。イノベーター。AIと機械学習のソートリーダー。元一流アスリート。

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15 分 2022年10月5日

メタバースが人間の行動にどのような影響を与える可能性があるのかはまだ分かりません。しかしそれを探るには、行動経済学が役立つでしょう。

要点
  • メタバースは人間の行動に劇的な影響を与える可能性が高い。
  • 具体的にどのような影響であるかを把握する上では、行動経済学と最近のテクノロジーが参考になる。
  • メタバースは人々により良い行動を促したり、メンタルヘルスを向上させたりする機会、また企業が消費者と交流する機会を新たに生み出す。

 EY Japanの視点

メタバースは技術ではありません。主軸となるのは想像力であり、それを現実に落とし込む技術という構成で成り立ちます。Web3.0の技術によって可能となった新しいエコシステムの可能性を駆使してどのような場所、人、営みがあり、何をするのか。想像力によって技術の持つ可能性を何倍にもし、新しいエクスペリエンスを生み出し、人の行動もバーチャルとリアルの両方で広がります。その価値創造こそがメタバースの持つ可能性の真髄です。

ビジネスプロフェッショナルとしてクライアント企業を支援していくEYは、エンタープライズ視点を持ってメタバースの構築と提供だけでなく新しいビジネスやデザインのコラボレーションの提案、インダストリーチェンジャーとして作業や業務の仮想化による改善などを推進していきます。技術論に終始せず、メタバースによる新しい価値創造を支援していくための想像力と技術を融合してビジネスを変えていきたいと考えます。

EY Japan の窓口

加藤 芽奈
EY Japanクライアントテクノロジーハブ共同リーダーディレクター

天野 洋介
EY wavespace™ Tokyo リーダー ディレクター

松尾 康夫
EY ストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 デジタル&エマージングテクノロジー アソシエイトパートナー

第2次世界大戦中、空飛ぶ要塞(ようさい)と呼ばれたB17爆撃機は頻繁に墜落事故を起こし、その多くは着陸時に発生していました。墜落事故を調べた調査員は当惑しました。なぜなら、機械の故障は確認されず、大抵はパイロットの操縦ミスが原因だったのです。しかし、なぜこの1機種の爆撃機において、これだけ多くのパイロットが似たようなミスを犯したのでしょうか。戦後、その謎がついに解明されることになります。米軍の心理学者2人が、翼のフラップを制御するスイッチと着陸装置のスイッチが同じ形状をしており、しかもその2つは隣り合っていたことに気付いたのです。この単純な設計上の決定により、暗いコックピットの中でいくつもの操作をしなければならないパイロットは、いとも簡単に着陸装置ではなく、翼のフラップを下げる操作をしてしまい、それが悲惨な結果を招き、死に至ることが少なくありませんでした。

この発見は、設計の歴史の中で大きな分岐点と位置付けられています。これはまた、人間が接するテクノロジーの設計が、人間の行動を大きく左右する可能性があるという基本原則を証明する事実でもあります。近年でも、もちろんこうした関係性はテクノロジーの分野で影響を及ぼしています。例えば、人々は、ソーシャルメディア上で自分のことをこっそりと書き込みされることに不安を感じており、ソーシャルメディアのプラットフォームとスマートフォンはすさまじい中毒性を備えた設計になっています。

メタバースが、人間が接するテクノロジーをこの世代で最も抜本的に変革する存在になることは間違いありません。まったく新しいHMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)、知覚体験、社会動学、市場構成を生み出すことになるでしょう。その結果、メタバースの設計は人間の行動に劇的な影響を与えるはずです。多くのことが経営層、エンジニア、設計者の選択に委ねられることになります。

本記事は、EYのメタバースシリーズの抜粋です。3回目となる今回は、メタバースが人間の行動にどのような影響を与える可能性があるかを探りました。メタバースが行動に与える影響を検討するに当たり、ビジネスリーダーはいくつかの要素を考慮しなければなりません。本記事では、以下の4つの切り口から掘り下げています。

  1. 過去の経験に基づく設計上の失敗の回避
  2. 行動と健康を改善する新たなツール
  3. メタバースにおける消費者の行動
  4. 今後に向けて:リーダーのための指針
ベッドに寝そべりスマートフォンで電子メールを送信するティーンエージャー
(Chapter breaker)
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第1章

過去の経験に基づく設計上の失敗の回避

メタバースの今後については、最近の技術革新がもたらした設計と行動への影響が参考になります。

近年の経験から何を学ぶことができ、また、メタバースで類似の失敗を回避するにはどうすればいいのでしょうか。考慮すべき点がいくつかあります。

テクノロジー中毒

スマートフォンとソーシャルメディアのプラットフォームの設計が、スクリーン中毒になる人々の増加を助長してきました。スクリーン中毒は、うつ症状の増加と関係しています。こうした傾向はティーンエージャーの間で顕著であり、これが最も懸念されている点です。このようなプラットフォームの中毒性は意図したものではないかもしれませんが、回避することはできました。これは、ユーザーエンゲージメントの最大化を前提としたビジネスモデルを採用した結果なのです。さらに、A/Bテストを実施したことで、無限スクロールからプッシュ通知まで、エンゲージメントの最大化を図りながら、中毒を生む特徴的な設計要素が誕生しました。

メタバースを支えるビジネスモデルと設計上の決定は、テクノロジー中毒にどのような影響を与えることになるのでしょうか。まだ黎明(れいめい)期にあり、メタバースを巡っては数多くのビジョンが示されていますが、こうしたさまざまなビジョンにも一貫した共通点があります。掲げられている目標は、常に利用され、人々が実質的にすべての時間を費やす環境を設計するということです。常に利用されるメタバースという目標は、エンゲージメントを最大化するというソーシャルメディア時代の目標と同様、ユーザーの中毒の新たな波を引き起こすことになるのでしょうか。

運動とメンタルヘルス

次は、別の設計上の選択肢であるメタバースプラットフォーム内での運動について考えていきましょう。運動が眠りの質を向上させると同時に、うつ状態とストレスを緩和させることはすでに実証されています。そのため、座りっぱなしで長時間過ごすことは、メンタルヘルスのアウトカムを悪化させることが予想されます。例えば、自分の足で歩いたり走ったりすることによってメタバース内で実際に運動をするというメタバースでの体験を実現する設計は、現時点では残念ながら実用的ではありません。

私たちの身体はまだ現実の世界にあり、身体を動かすと壁にぶつかったり、家具につまずいたりしかねません。解決策としては全方向性トレッドミルなどが考えられますが、扱いにくい上に多大な投資が必要です。そのため、広く普及することはまずないでしょう。メタバース内での身体的移動という暗号を設計者とエンジニアは解き明かすことができるのでしょうか。それとも、新世代のイマーシブ(没入型)エクスペリエンスや座りっぱなしの体験がマイナスのヘルスアウトカムを招くことになるのでしょうか。

二極化と分断

ソーシャルメディアによって、政治の⼆極化が加速し、また人々の社会に対する信頼は低下したと言えるでしょう。自分の考えと同じ、または近い考えを持つ他者を優先させるという私たちの⾏動については、行動経済学者がその心理学的基盤を幅広く文書にまとめています。テクノロジーがこうした本能的な行動を生み出したわけではありません。テクノロジーは、これを武器化したのです。ソーシャルメディアのプラットフォームは、同じ考えを持つ人の意見しか聞かないエコーチャンバー現象やフィルターバブルを生み出しました。一方、エンゲージメントの最大化を目指すアルゴリズムで試行錯誤した結果、反対陣営に対する道徳的な怒りを増幅させることにより、人の心を効果的につかめることが分かりました。

慎重に検討した上で設計上の選択をしなければ、メタバースでは過度の二極化とフィルターバブルを招きかねません。政治的信条によりメタバースのプラットフォームが変わってくるだけでなく、同じプラットフォームでもエクスペリエンスが無限にカスタマイズされる世界を想像してみてください。リベラル派と保守派では、同じメタバース上の近所を歩いていても、すべてが自分の政治的信条に合わせてカスタマイズされているため、そこにある店やアバター、ボット、エクスペリエンスが違うという現象が起きかねません。

メタバースで、私たちが起きている時間の大半を過ごすという環境になった場合、現実世界とのつながりがますます失われていく可能性が出てきます。こうした空間がその人の世界観に合わせて設計されているとなれば、なおさらです。仮に、ソーシャルメディアが怒りを利用して収益を得ているとすれば、喫緊の社会的課題(気候変動、経済格差、独裁主義者による政治的な動き)に注意を払う必要性が減るどころか高まる今、現実世界から逃避できる空間を構築するメタバースは、感情のまひを利用して収益を得るようになると言えるかもしれません。

誤った情報(デマ)とクリティカルシンキング

ソーシャルメディアにデマの問題があることは周知の事実です。対策が強化されているものの、デマを完全に排除することが非常に難しいことはこれまでの経験から明らかです。その背景には2つの特徴があります。ソーシャルネットワークが膨大な情報を生み出すこと、そして、どの情報を削除するかという決定には微妙な判断が求められる場合が多いことです。そのため、自動システムが活用されている(動画にハッシュタグを付けることで、AIが陰謀論関連の動画のコピーを瞬時に削除できるなど)とはいえ、コンテンツモデレーション(投稿監視)は相変わらずたくさんの人手が必要で、不正確な結果をもたらすことが少なくありません。

このままでいくと、メタバースがデマの問題を深刻化させる可能性があります。一例としては、メタバースへの移行により、情報収集量が過去に例を見ないほど激増することが考えられます。音声、動画、テキストオーバーレイ、表情、ジェスチャーなどから情報がリアルタイムで伝えられるマルチオンラインの世界を想像してみてください。

ソーシャルメディアのプラットフォーム上で共有されるのは投稿、画像、動画を含め、どちらかというと静的な情報です。生成後に変更されることがなく、いつでもチェックできます。一方、メタバース上で生成される情報はそれよりも格段に流動的で動的なものとなり、流れ去っていくでしょう。例えば、個人同士のリアルタイムでの会話や交流などが該当します。これが、メタバース上で生成された情報の追跡をはるかに難しくしています。また、メタバースのプラットフォームの設計機能の多くが匿名化を促進・実現して、攻撃する側がデマをより簡単に拡散できるようになりかねません。

壁に大画面で映し出された自然の風景の画像を眺める少女
(Chapter breaker)
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第2章

健康と行動を改善する新たなツール

メタバースは、ヒューマンエクスペリエンスの新たな領域を切り開くことになるでしょう。それが人々の共感を引き出し、行動の変化を定着させ、メンタルヘルスを管理する一助となるかもしれません。

ここまで読んで、いささか気のめいる内容だと感じた方には朗報があります。メタバースは、企業に行動上の課題を突き付けるだけではありません。行動と健康を改善するこれまでにないような機会ももたらしているのです。少しだけ例を挙げてみましょう。

アンコンシャスバイアスをなくす

アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)とは、文字通り本人が認識すらしていない偏見であるため、知らぬ間に深刻化する課題です。一見寛大な人でも抱いている場合があり、人種的アイデンティティ、ジェンダー、年齢、体重などの特性で相手を決めつける、根深い社会的ステレオタイプ化が原因であることが少なくありません。

アンコンシャスバイアスに共通しているのは、通常、その人の外見や声の高さなど知覚的な手がかりに基づくものだという点です。一方、メタバースは、ユーザーがアバターを使うことで自分の外見、ジェンダー、人種、声を変えることができ、今まで不可能であった、こうした知覚的な手がかりをそぎ落とすことができます。そのため、変革を起こす可能性を秘めていると言えるでしょう。

メタバースにより、雇用や採用の際のアンコンシャスバイアスをなくすことができるかもしれません。例えば、面接官に応募者の人種、ジェンダー、年齢を伏せておくことで、無意識の偏見を抱く可能性を排除できると考えられます。企業や教育機関はさらに踏み込んで、これをセンシティビティトレーニング(感受性訓練)に活用すると良いでしょう。自分の分身をメタバース上で生活させることができるメタバースエクスペリエンスは、自分とは別の人種やジェンダーの視点から世界を体験することを可能にし、認識と感受性を高めることができるはずです。

長期的な行動の改善

メタバースは長期的行動の面で人々に寄与することもできると考えられています。この場合のエクスペリエンスとは、誰かの視点からというよりも、将来の自分の視点から世界を体験できるということになるでしょう。

潜在的な機会を評価するに当たっては、私たち人類が直面している最も扱いにくく、かつ多額の費用のかかる課題の一部について考えてみてください。科学者が気候変動について何十年も前から警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、私たちは二酸化炭素排出量の十分な抑制を幾度となく怠ってきました。同様に、食生活や運動などの行動を少し変えるだけで、全世界の医療費に占める割合が最も高い慢性疾患を著しく軽減させることができることは、かなり前から知られていました。消費者であれ政治家であれ、債務との不健全な関係が生じる原因は、将来を見据えた行動をとることに対する後ろ向きな姿勢です。今のやり方を変えなければ、今後はこうした課題の一つ一つが、数十兆ドルものコストを全世界に課すことになるでしょう。

問題となるのは人々の意識ではなく、まして変えようという意欲でもありません。行動経済学者は、人間の行動に対する世界共通の偏見に問題があることを突き止めました。つまり、私たちは目に見えない、あるいは実体のない将来の成果や結果を過度に軽視する傾向があるのです。

 

裏を返せば、直接かつ目に見える成果でやる気が高まるということです。これこそ、メタバースが非常に大きな効果を発揮できる分野です。現在の健康を意識した行動からその人の将来の視点に立つことができるアバターや、気候変動で荒廃した未来の世界で自宅の近所を歩くことができるエクスペリエンスを想像してみてください。私たちの行動が将来もたらす結果を目に見える直接的な形で示すことで、自分自身の長期的な利益のために行動を改善しようという気持ちを引き出せると考えられます。

メンタルヘルス面のメリット

最後に、メタバースはメンタルヘルス関連の重要な課題の一部に対して効果を発揮する大きな可能性を秘めています。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を考えてみてください。13人に1人が一生のうちに患う、深刻化することの多い障害です。米国退役軍人省は、仮想現実(VR)を活用したPTSDの治療で成果を上げてきました。安全かつ管理されたシミュレーション環境でトラウマ(心的外傷)を追体験することで、退役軍人はPTSDの症状に向き合ってコントロールできるようになります。多くの人が戦闘と結びつけて考えますが、PTSDは一般の人にもよく見られる障害であり、PTSDになる人は増加傾向にあります。例えば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックにより、エッセンシャルワーカーの間でPTSDがひそかに急増してきました。

メタバースは、不安障害から恐怖症まで、増加傾向にあるその他のさまざまな障害の治療にも有益です。イマーシブな環境が、恐怖症の一般的な治療法である曝露療法を次の段階へと押し上げることができると考えられます。また、手足などの切断による障害では、VRが幻肢痛などの問題への対処で効果を発揮してきましたが、これからはメタバースがゲームチェンジャーになる可能性があります。

虹を背景にした若いアジア系の女性のポートレート
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第3章

メタバースにおける消費者の行動

未来の消費者を念頭に、メタバースは今後、顧客と緊密に交流する新たな機会をもたらしてくれるはずです。

メタバースが消費者行動とマーケティングに変革をもたらすことは間違いありません。それが何を意味するのかを把握するためには、もう一度行動経済学に目を向けると良いでしょう。意図的であれ、試行錯誤の結果であれ、マーケターはこれまで、人間の数々の行動バイアスと嗜好に着目し、自社の商品を購入するよう人々を誘導してきました。相互の関係に応じてサブスクリプションの料金を設定する仕組みから、スーパーの棚にどのように商品を陳列するかまで、マーケターはそれぞれ最大の効果を生むことができる最適な決定を下します。これは、行動経済学の基本原則に基づいていると言えます。

メタバースは、これとはいささか異なるものになるはずです。マーケターは引き続き、⾏動経済学の知⾒を活⽤しますが、メタバースの特性ゆえに、その知⾒が若⼲異なる形で展開されることになるでしょう。 

 

プライミング効果

プライミング効果の力について考えてみましょう。プライミング効果とは、先に受けた刺激に、その後の行動や決定が無意識に影響されることです。研究者がある実験を行ったところ、地球温暖化についての調査中に室内の温度を上げただけで、回答者が答える気候変動対策の重要度が上昇することが分かりました。別の調査では、ウェブページの背景が、ユーザーのオンラインショッピング行動に直接影響を与える場合があることが明らかになりました。

これまでのマーケティングチャネルと比べ、メタバースではこの原則がはるかに効果を発揮できるであろうことは想像に難くありません。設計者は、ユーザーが遭遇するほぼすべての視覚的・聴覚的な手がかりを、これまでに例を見ないレベルで変えられるようになるはずです。刺激をカスタマイズし、個々の顧客に向けたマーケティングピッチの効果を最大限に高めることを企業は目指しており、この分野の実験が数多く実施されることが期待できます。

消費者は、使いやすい機能がそろった先見的で、自分にとって意義のあるエクスペリエンスをますます期待するようになってきました。この期待がさらに高まるのは、エクスペリエンスが非常に重要な要素であるメタバースです。
Janet Balis
EY Americas Marketing Practice Leader

選択のパラドックス

よく知られている行動バイアスにはほかに、組み立て家具のグローバルな量販店の名前にちなんだイケア効果があります。これは、自分が作ったり、組み立てたりしたものを過大に評価する心理効果です。

イケア効果は、さまざまな状況に応用できます。親が子どもに食事の支度を手伝ってもらい、野菜を食べるようにさせることや、顧客が自分のスニーカーをデザインできるスポーツ用品メーカーのサービスなどです。メタバースは理論上、これをまったく新しいレベルへと押し上げることができます。物理的商品の場合は、カスタマイズ可能な機能を加えることで製造がより複雑になり製造コストも上昇するため、スニーカーメーカーは限られたカスタマイズ性しか実現できません。ところがデジタル空間では、カスタマイズ可能な機能の追加に必要な限界費用は基本的にゼロです。そのため、アバター、スキン、生活環境のカスタマイズでほぼ無限の柔軟性をユーザーに提供することは当然だと思えるかもしれません。

しかし、ここで私たちの前に立ちはだかるのが、別の行動バイアスである選択のパラドックスです。心理学者のBarry Schwartz氏は、自身の著書「Paradox of Choice」の中で、ある一定の限度を超えると、選択肢が増えれば増えるほど顧客は困惑して決断ができなくなり、満足度が下がると指摘しています。そこからメタバースのマーケターが学ぶべき教訓は明らかです。メタバース用の分身をカスタマイズできるようにしなければなりませんが、やり過ぎないよう注意する必要があります。

 

「人工的希少性」の心理

メタバースブームに沸く昨今、消費者行動の別の要素である希少性の心理を利用した興味深い実験も行われています。

希少性は、経済と市場を動かす上で欠かせません。希少性はものに価値を与えます。石油輸出国機構(OPEC)が設立された理由や、芸術家が死ぬと、その作品の価値がすぐに上がる理由もそこにあります。実際のところ、企業の資本配分に関する決定から、家庭の出費と貯金に関する決定まで、市場が果たす中心的な役割は希少な資源の最適な配分です。

それでは、希少性がなくなると市場はどうなるのでしょうか。これは、メタバースの黎明期である今、人々が答えを探している問題です。多くの人が関心を寄せた答えは、人工的希少性という一風変わった構成概念です。デジタル空間では無限に上昇させることができる考えられる資産(デジタル土地やデジタルアートなど)の価値を引き上げるために、人々はNFT(非代替性トークン)などのメカニズムを活用して供給の抑制を図っています。

現時点ではそれが機能しているように見受けられますが、人工的な希少性を持ったデジタル資産市場が活況を呈している理由は行動バイアスである可能性があります。この行動バイアス、すなわちFOMO(何かを見逃すことへの不安)をあおっているのは行動科学者ではなく、有名ツイーターです。人工的希少性の原理に疑問の余地があるのであれば、その現象がどの程度持続可能であるのか、また、メタバースでは長期的に見て何が価値を生み出すのかを考えてみることも有益です。

バーチャルエクスペリエンスを中心に構築された市場では、「バーチャル」は「エクスペリエンス」ほど企業価値に大きな影響を及ぼすバリュードライバーにはならないでしょう。企業は商品化可能なデジタル資産で競い合うよりも、ユーザーが、魅力的で、勇気付けられ、そしてやりがいを感じるようなエクスペリエンスをつくることで競い合ったほうが良いのではないでしょうか。

「消費者は、使いやすい機能がそろった先見的で、自分にとって意義のあるエクスペリエンスをますます期待するようになってきました」とEY Americas Marketing Practice LeaderのJanet Balisは指摘します。「この期待がさらに高まるのは、エクスペリエンスが非常に重要な要素であるメタバースです」

マルチカラーLEDディスプレイの色鮮やかな画面に触れる母親と子どもの手
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第4章

今後に向けて:リーダーのための指針

メタバースはまだ黎明期にありますが、企業の取り組みの指針となる価値観や基準を今、定めたとしても、時期尚早ということはありません。

これから、メタバース戦略を考える際にビジネスリーダーが従うべき原則を3つ紹介します。

1. 広い視野でメタバースの活用法を考慮

多くの企業がマーケティングに即戦力としての可能性を認めていますが、メタバースは、メンタルヘルスの改善から、気候変動への対処、職場でのより良いチームづくりの実現まで、人間の行動のあらゆる面におけるゲームチェンジャーになり得ます。本記事はメタバースを表面的に論じたにすぎません。あなたの会社のメタバース戦略は、活用できるあらゆる機会を考慮したものですか。

2. 実験と学び

メタバースに関する取り組みはまだ始まったばかりで、未知の事柄が多くあります。本記事の知見は、他分野からメタバースに至るまで、さまざまな調査や研究の結果を参考にしたものです。とはいえ、メタバース自体はこれまでにないものであり、ほとんど研究がなされていません。よって私たちがまだ想像もできないような行動の変化をメタバースがもたらす可能性もあります。

行動経済学から企業が得ることができる最大の教訓はおそらく、行動経済学の調査方法です。人間の行動を研究する学者は、実験経済学を活用して画期的な知見を得ることが少なくありません。実験経済学とは、人々が実際に取るとっぴで、しばしば直感に反した行動を明らかにすることを目的とした、独創的であまり費用のかからない研究です。メタバース内での行動について、どのような知見を新たに導き出すことができるでしょうか。また、そうした知見から企業はどのような競争優位性が得られるでしょうか。

3. 倫理に配慮した設計

一見すると小さな設計上の決定が、非常に大きな結果を招く場合があります。例えば、飛行機の墜落や、深刻な中毒を生むデバイスの誕生などです。設計上のあらゆる決定が与える影響を考えてみてください。リーダーはこうした決定をエンジニアだけに委ねず、早い段階から行動科学者を打ち合わせに参加させましょう。

設計上の決定が人間の行動に与える影響を慎重に考慮するためには、プロセスと体制の整備が必要です。どのようなガバナンスの枠組みが必要なのでしょうか。メタバース製品の倫理審査委員会の設置を検討する時期になったのでしょうか。

最後に、これはテクノロジー企業だけに言えることではありません。マーケターはあまりにも長い間、行動経済学の原則を活用し、消費者が必要としていないものに対しても、手が出ないような金額の支出をさせてきました。メタバースでは、自社の利益のためにステークホルダーを搾取するのではなく、ステークホルダーに新たなエクスペリエンスを提供するために、行動に関する知見をどのように活用すればよいのでしょうか。

 

EY Japan 鳥飼八幡宮
メタバースプロジェクト

EYは、福岡・鳥飼八幡宮と共に歴史や伝統と向き合い、デザイン思考を取り入れメタバース神社を企画・設計。誰もが集い思い思いに過ごせる、未来へとつながる神社を構築しました。

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サマリー

意図的であろうと、または偶然であろうと、人間に接するテクノロジーの設計は人間の行動に影響を与えます。メタバースが新たなインターフェース、知覚体験、ソーシャルネットワーク、市場ダイナミクスを生み出すことになるのは間違いありません。企業がステークホルダーに新たなエクスペリエンスを提供し、自らを成長させるためには、こうした各要素の設計を注視する必要があります。

この記事について

執筆者 Nicola Morini Bianzino

EY Global Chief Technology Officer

ニコラ・モリーニ・ビアンジーノ/グローバルなEYの組織が展開するサービスラインとマーケットの中心に、テクノロジーを据える。ニューラルネットワークのパイオニア。イノベーター。AIと機械学習のソートリーダー。元一流アスリート。

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